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帝銀事件とは

秋元波留夫

1. 帝銀事件とは
  敗戦から間もないGHQ支配下の時代に起こった謎と疑惑に包まれた奇怪な事件である。昭和23年1月26日午後3時頃、東京都豊島区長崎帝国銀行椎名町支店に東京都の消毒班の腕章をつけた中年の男が訪れ、16人の行員に赤痢の予防薬と偽って青酸化合物を飲ませ、12人を死亡させたうえ現金約16万円余と小切手一枚を奪った毒物による大量殺人事件である。
 
2. 犯人は誰か
 この事件の犯人として昭和23年8月21日逮捕されたのが北海道小樽のテンペラ画家として知られた平沢貞通(1892年2月18日に生まれ、当時56才)である。一審の第一回公判で捜査段階の自白をひるがえし、帝銀事件について無実を訴えたが、地裁、高裁、最高裁の三審を通じて有罪と認定され、昭和30年4月、最高裁で死刑が確定した。死刑判決確定後も無実を訴え続け、獄中にあること39年、昭和62年5月10日朝、八王子医療刑務所で95年の生涯を終えた。
 死刑が確定しながら、このように長期間にわたって刑が執行されなかつたのは何故だろうか。誰しも抱く疑問だろう。元東京高等検察庁検事長で帝京大学教授の藤永幸治によると、判決の事実認定に問題があつたので死刑の執行をしなかった、ということである(読売新聞1996年12月8日朝刊、朝日新聞1996年12月9日朝刊による)。30数人におよぶ歴代の法務大臣が死刑執行を見送ったのにはそれなりの理由があるにちがいない。それにしても判決の事実認定に問題があるとしながら、これほどの長期にわたる拘禁を敢えて行った法務省は人権の見地から責められてしかるべきであろう。
事実、この事件の捜査や裁判、ひいては法務省の態度に疑問を持ち、平沢の無罪を信ずる人は少なくない。作家松本清張、弁護士正木ひろし、評論家鶴見俊介、その他大勢の人たちが平沢の冤罪をはらすために論陣を張った。昭和37年7月には作家森川哲郎の首唱で「平沢貞通氏を救う会」」が発足した。この会が中心となって平沢の再審請求,さらには特別恩赦にむけての活動が続けられ、生前の再審請求18回、恩赦出願に5回におよんだ。1982年、志半ばで病没した森川哲郎の遺児武彦は平沢の養子となり、父の遺志を継いで同志とともに平沢救援の運動に没頭する。この運動は平沢の死後も続けられ、1989年5月10日、平沢貞通の3回忌を期して武彦は新証拠を準備して第19次再審請求(請求死後再審)を東京高裁に提出した。この請求に対して東京高裁はまだ態度を明らかにしていない。
 これまで略述したように、帝銀事件の犯人は平沢ではない、平沢は冤罪であり、平沢裁判は誤審であるとして再審を求める運動が平沢の死後もなお続けられている。帝銀事件の真犯人は元関東軍731部隊の化学兵器開発の担当者ではないかとの推測を支持する証拠資料(初期捜査を担当した故甲斐文助警視庁警部が遺した「捜査手記」12冊)も見いだされているし、警視庁がこの元軍人の捜査を断念したのは、731部隊関係者の戦争責任の追求の免除を代償として化学兵器などの研究資料を押収した事実の暴露をおそれたGHQの圧力によるものだとする説を裏付ける資料(アメリカのジャーナリストが発見したアメリカ公文書)もある。このような時代的背景の考慮なしには誰が考えても不当極まる法務省の平沢見殺しの真の理由を理解することはできないだろう。


秋元波留夫氏 略歴

1906年 長野県長野市で生まれる
1925年 旧制松本高等学校卒業、東京帝国大学医学部入学
1929年 東京帝国大学医学部卒業、北海道帝国大学精神医学教室入局
1935年 東京府立松沢病院医員、東京帝国大学医学部副手
1937年 東京帝国大学医学部講師、外来医長
1941年 金沢医科大学(現金沢大学医学部)教授
1958年 東京大学医学部教授
1966年 国立武蔵療養所(現在国立精神衛生センター)所長
1979年 東京都立松沢病院院長
1983年 退職

現職 日本精神衛生会会長、社会福祉法人ときわ会理事長、社会福祉法人あけぼの福祉会理事長、社会福祉法人きょうされん理事長、共同作業所全国連絡会顧問


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