平沢貞通氏を救う会趣意書 |
1962年6月28日 森川哲郎事務局長記 |
![]() 一つの冤罪事件を救出する運動が、それだけに止まってしまう傾向があるが、それでは意味がない。こうした事件の根は、発端である捜査の方法と質、検察官の思想と方法、さらに裁判官の考え方と性格に深い関係がある。そして、ここに共通する一つの根は、彼らがみな公務員であり、官僚であるということである。 保身と立身出世主義、派閥の狭いワク内に生きる人々の間だけで、捜査から判決まで独占されてしまうことは、恐ろしいことである。その上、これに対抗する弁護士との力関係、またその弁護士の思想や性格も大きく原因する。 検察側は、膨大な国家費用をバックにし、弁護側は自費で対抗しなければならないという矛盾が、まず存在する。それに弁護士自体が、権力を恐れ、権力に迎合する傾向があっては、現行の裁判制度そのものが無意味である。 官僚たちの民主思想の再訓練、別件逮捕の規制、陪審制度の合理的な復活。人権擁護局の独立、再審制度の改正、恩赦審議機関の完全な独立など、この事件を追究、分析していく過程で、痛感した制度の改革の必要性は枚挙に暇ないほどである。 行刑制度も改革しなければならない。誤った死刑執行をおさえるためにも死刑廃止は必用である。また捜査官から看守にいたるまでの待遇の改善、その質の向上と使命感の充実をもはからなければならない。そうした多くの内蔵する矛盾を解決していくことがない限り、誤判と冤罪の病根を断ち切ることは不可能である。だが、それに先行するもっとも重大な病根は、国民の思想、意識のあり方である。 日本の民主主義は、民衆自らの自覚と抵抗の中から、かちとったものではない。明治維新は、軽輩士族の手に成ったものであるし、戦後の民主主義、民主憲法はアメリカに支配された一部の上層部の人たちの手で造り上げられたものである。つまり、民衆自体の内から発生したものでもなく、当然民衆の血になり、肉になって消化されたものでもないのである。 国民のほとんどは、いまた天皇制時代につちかわれ、全体主義時代に養われ育てられた古い思想、意識、習慣等を自らの骨髄奥深くからみつかせている。 おなじ人間である検察官や、裁判官が、決して過ちをするわけがないと、単純に神聖視して考えたり、あるいは警察に入っただけで恐怖をおぼえたり、検事の前では無意識のうちにも迎合するような証言をしてしまったりするのもそのせいである。こうした状態では、拘禁病の進行も、またその速度が自ら異なるであろう。 そうした国民意識の権力に対する隷属的傾向を払拭しない限り、権力による捏造も冤罪も、またともに跡を絶たないであろう。 要するに、この運動は、自覚した民衆が立ち上がって、権力のおかした一つの誤判事件に抵抗していく過程の中で、民衆の意識の中に、自らの人権を確立し、民主主義を深く把握し成長させていくという意義をもっている。 そして、そのために何よりも大事なのは、自分自身の古い思想、古い意識ときびしく対決し、これを克服していくことでなければならない。それは決して一裁判、一誤判の問題に止まらず、私たちが生きている世代における、すべての現象にひろがって行くものである。 |
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