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平沢貞通氏・画家としての復権を!
新発見された逮捕前の画家時代の写真
 ドキュメンタリー「獄窓の画家・平沢貞通」(NHK・2000年5月31日放送)のディレクターである片島紀男氏は、平沢氏の画家としての復権を求める研究をさらに進めている。そんな中、大正初期の平沢貞通氏の3枚の写真が見つかった。

平沢貞通と石井柏亭
2005年9月
TVディレクター・片島紀男
200515404.jpg (30845 バイト)  1930年(明治36)『水彩画の栞』を刊行しベストセラーとなった画家大下藤次郎は、その直後の欧米旅行から帰国すると、今からちょうど百年前にあたる1905年、美術出版社を創業、わが国に於ける水彩画の普及と向上を目指して、水彩画の専門美術雑誌『みずゑ』(右の写真はその表紙)を創刊。翌年、水彩画講習所を、さらに翌1907年に日本水彩画研究所を開設、後進の直接指導と啓蒙活動を担った。研究所には全国から水彩画を志す若き画家や学生たちが集まった。平沢貞通は1911年(明治44年)旧制小樽中学(現在道立小樽潮陵高校)4年の時、将来画家になることを憲兵隊出身の父親に反対され、医者から神経衰弱と診断され休学していた。北海道に住み、新しい知識と文化を貪欲にむさぼろうとしていた感受性豊かな少年平沢貞通は、日本水彩画研究所の存在を知り、直ちに上京、研究所へ入学した。
200515405.jpg (31445 バイト)   同年10月、大下藤次郎が数え年42の若さで死去すると共に研究所の継続が問題となり、平沢も後継者の東京市議辰沢延次郎から、中学だけは卒業しておけと忠告され、小樽に戻って1912年(明治45)3月、結局留年することなく第7期生として卒業したのである。左の写真はその卒業時の記念写真である。(部分拡大図はこちら)旧制小樽中及び道立小樽潮陵高校の同窓会組織「潮陵記念館」の井筒健三氏が送ってくれたものである。

  日本水彩画研究所はその後1913年(大正2)石井柏亭、白滝幾之助が引き継ぎ、二人が主として指導の任に当った。平沢貞通は再び研究所に通った。大正年間発行の『日本美術年間』の「現代美術家禄」にも平沢貞通の経歴として「日本水彩画研究所に学ぶ」あるいは「日本水彩画研究所修」と記されている。
200515402.jpg (32773 バイト)   同1913年にはまた、石井柏亭、石川欽一郎、磯部忠一、戸張狐雁、丸山晩霞、白滝幾之助、赤城泰舒、水野以文らが集まり、水彩画家の集団「日本水彩画会」を結成。当時弱冠21歳であった平沢貞通(当時は「不朽」と称した)も37名の発起者の中にその名を連ねている。同年6月4日から29日にかけ、第1回日本水彩画家会展覧会が東京・上野の竹之台陳列館で開催され、54名の会員が出品した。右の写真はその時撮影された記念写真で(『みずゑ』第101号に掲載)、着物に袴姿の平沢氏が写っている。平沢貞通はその後、昭和5年、6年、11年、12年に日本水彩画家会の委員になっている。


200515401.jpg (31609 バイト)   また左の写真は、石井柏亭が初めてカメラを買った時、たまたま石井柏亭のアトリエを訪れていた平沢貞通を撮った写真で、石井柏亭の三女で画家の田坂ゆたかさんからこの度頂いたものである。「撮影年月日は不明なれど、大正8〜10年頃。同じアルバムの写真の次期から右記の頃と思われる」とのメモがあり、石井柏亭が初めて撮った写真が、平沢貞道氏だったというのである。二人の深いつながりが偲ばれる記念すべき写真である。大正8年(1919)と言えば、平沢貞通が初めて第1回帝展に出品した年であり、大正10年は第9回光風会展で今村奨励賞(後の光風会賞)を受賞した年でもある。

写真をクリックすると大きな画像で観ることが出来ます

平沢貞通氏を救う会
e-mail :
teigin-case@gasho.net