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「浄」 1957年 作


この展覧会について

1948年8月21日、小樽の実家で、来月開催される個展のための絵を描いていた平沢貞通は、刑事の呼び出しを受け、帝銀事件の容疑者として逮捕された。それから51年の歳月がたった。39年余り、死を見つめ、無実を叫びつづけた平沢が、無念の思いのまま95年の生涯を閉じてから12年。私たちは、なおも雪をはたすために死後の再審請求を提起、半世紀後の「裁判のやり直し」の実現に向けとりくんでいる。
  それとともに、この冤罪により、失われ、奪われてしまったもの。平沢は、逮捕前は帝展(現日展)無鑑査の一流の画家だった。旧制小樽中学の美術クラブ白潮会で卓越したが画才を示し、22歳で第一回二科展で初入選、日本水彩画会の結成には発起人として参画、光風会や中央美術展で相次いで金賞を受賞、日本美術学院では講師を勤め、美術雑誌にはテンペラ画法の論文を数多く発表、日本テンペラ画会を結成、テンペラ画の開拓者の一人として独自の作風を築き上げた。
  しかし、逮捕後は、画家として葬りさられ、それまでに描かれた絵の数々も、壁から外され、倉庫の中へ、または骨董商等にわたり、転々としていった。代表作のほとんどが未だ所在不明のまま。絵自体も半世紀、闇の中に葬られてきた。
  一方、平沢は、獄窓においても絵筆をとることを止めはしなかった。薄暗い独房で、外世界への希求を込め、遠い記憶をたどり、光に満ちた様々な風景画を、色鮮やかに描きつづけた。その数は2千点余にのぼる。
  この展覧会では、その画家としての《空白》を埋めるべく、半世紀ぶりに見つかった数点の代表作とともに、所在が不明の作品を、美術雑誌などの図版の複写により展示、そして、死と対峙し描きつづけた獄中での作品をたどり、冤罪に翻弄されつづけてきた平沢貞通の生涯を見つめ直す。私たちは、この展覧会を契機に、さらに行方の知れぬ作品の《絵探しの旅》をつづけていくことにしている。

各界からのコメント

針生一郎(美術評論家)

  平沢貞通の画業は大正期にもっともゆたかな可能性をはらみ、それはとりわけ北海道の広大な空間ときびしい自然の中で生きる、アイヌなどの民衆生活を見つめるリアリズムと、水彩画からテンペラ画へと進んだ材質と技法の探求によってもたらされた。(略)やがて、数年後に、彼の獄中作がはじまるが、平沢の制作過程からみれば、逮捕前との断絶はおおいがたい。眼前に描くべき何の手がかりもないのに、その閉ざされた状況で、彼は記憶と想像だけにたよって、ピアノの鍵盤を手さぐりにあちこち叩くように、自己のアイデンティティにかかわる映像をさぐりだす。これらの獄中作は、芸術的感動とはやや異質だが、必死で切実ないとなみを続けた人物を、ついにそのまま死なせた根源が権力の負わせた冤罪であったとすれば、これは天人とともに許すことができない。

ヨシダ ヨシエ(美術評論家)

  私の接したわずかな作品群は、怒りや恐怖や焦燥やそれらをのり超えようとする内面の闘いの痕や、のり超えた清明な悟りにも似た穏やかな世界や、そうした心のうごきの活写された、かけがえのない、そして無残な内的記録としても読むことができる。このような振幅は、かつての平沢にはありえなかったものだが、この類稀な世界が、平沢貞通のいう徹底した観照と、その記憶下の状況で想像力として40年間ゆれうごいていたとしたら。それは、どんな無法が囹圄に囲い込むことができるか。

熊井啓(映画監督)

  昭和23年8月、逮捕された当時、氏は一流のテンペラ画家で、画業の完成期にあった。もし事件に巻き込まれてなければ、画家として天寿を全うしたに違いないのに獄中にあって本格的な創作活動は不可能であった。芸術家から表現の自由を奪うことは死を意味する。芸術家として平沢貞通氏は、すでに半世紀前に死刑を執行されていたに等しかったのである。



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