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追悼・遠藤誠弁護士-平沢武彦

撮影:加藤雅昭
  先日、遠藤誠法律事務所と葛飾区内の自宅にある帝銀事件関係の膨大な裁判資料を、妻・けい子さんが整理し、私たちが、譲り受け、新たな主任弁護士事務所に移しました。
  遠藤弁護士の自宅は、生前のまま、多くの資料にうもれた中に書斎がありました。休日の土日は、数十年、着古しボロボロになった着物を着て、弁護書面をまとめる日に決めていた。全勢力を傾け、休むことなく弁護士としての使命をつらぬいたのです。
  私たちは、遺志を受け継ぎ、さらに、権力犯罪と闘っていく覚悟です。

  今後の活動、再審請求弁護団の新体制につきましては近日中にこのページで発表いたします。


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撮影:結束武郎
追悼・遠藤誠弁護士
平沢貞通氏を救う会 平沢武彦
  遠藤誠弁護士が、本年(2002年)、1月22日に他界した。死因は肺がん。享年72歳だった。
帝銀事件の主任弁護人として、20数年、平沢貞通の雪冤に向けて闘い、志半ばの壮烈な戦死となった。
  ピース缶から取り出した煙草を口にし、再審会議で、熱心に語る、正義感にみちた風貌を、もう見られないことは、残念である。
  昨年(2001年)夏頃から胸の痛みに苦しみ、同年10月、入院した時には、手術が不可能なほど、肺がんが進行、リンパ、骨まで転移していた。
  私たちが、遠藤弁護士と最後に会ったのは、同年9月に行われた再審会議だった。肺がんであることを、私たちには告げず、その苦しさを見せることはなく、そのまなざしは、何故か澄んでいたことが思い出される。
  11月の会議に、私たちは遠藤事務所に訪れた。しかし、すでに入院後だった。遠藤弁護士、事務員をつとめていた妻・けい子さんの姿はなかった。あるじのいない事務所。 冷ややかな雰囲気に、私たちは、胸をつまされた。

  15年前、八王子医療刑務所で平沢貞通が危篤となったとき、独房で、気管切開した平沢は、呼吸を荒くし、何事かを、遠藤弁護士に訴えようとしていた。声にならない平沢の言葉、それは、無実への切なる訴えだったのだろう。遠藤弁護士は「独房で最後を見取る」と、看守の静止をふりきり、座りこんでいた姿、そして、平沢が獄死した際、刑務所の門前で「この権力犯罪のうらみは、ぜったい晴らす」と、叫ぶようにマスコミ関係者に訴えていた姿が思い出される。

  遠藤弁護士は、日本弁護士会において、稀有な異端の人物だった。
  権力の不正に虐げられた人には、無償、手弁当で熱心な弁護活動にあたった。帝銀事件でも鑑定などの裁判費用の全てを負担。
誰もが手をつけない事件にも、その役目にあたった。
  「暴力団対策法案」の際にも、違憲むあると、右から左の人たち、そして、組関係者を連合させ、デモなども行って、闘った。
  山口組からは、12億余りの主任弁護費用を出すと言われたというが、それを拒否し、無償の闘いにのぞんだ。
  同組から講演を頼まれ、多くの組員を前に「任侠とは、強きをくじき、弱きを助けるものだ」と熱弁をふるったという。阪神神戸震災の際、山口組が、どの団体より早く、被災者への炊き出し等を行ったのは、その影響があったといわれる。

  遠藤弁護士が、大きな壁にぶつかったのは、オウム真理教の件だった。幹部の青山弁護士の弁護人をつとめた際、母親、そして兄弟から離縁をつげられ、一緒に住んでいた娘さんは、家出をした。
  孤立無援の闘い、世の全てを敵にまわした時、冤罪者、そして、その家族達の心情を深く痛感したことだろう。
   そんな遠藤弁護士の唯一の心の支えは、妻のけい子さんの存在だった。法律事務所の事務員をも献身的につとめ、遠藤弁護士が、   問題のある件案をどうするか、最終的に決めるときは、けい子さんに相談し、弁護活動にあたっていたという。
  遠藤弁護士が、かつて、鬱病に苦しんでいた際、けい子さんの仏教の教えに、救われ、立ち直り、生涯、仏教者として生きようと、「現代人の仏教の会」を主催、月に2回、共鳴する弟子達が、事務所からあふれるように、つどっていた。けい子さんとは、別居結婚という形で、生涯の愛をつらぬいた。

  永山則夫死刑囚の国選弁護人をもつとめたが、「死刑が執行されたら、オホーツクの海に散骨してほしい」という永山さんの遺言どおり、波にゆれるつり船で、遠藤弁護士が読経するなか、けい子さんは、青い海に、一つ一つの遺骨をしずめた。権力により、虐げられた人々、死刑執行や獄死をしいられた人々への祈りをこめて。
  遠藤弁護士のよき同士として、闘っていた、けい子さんに、深い感謝を述べたい。

  昨日(2002年5月29日)、遠藤法律事務所と自宅にある帝銀事件関係の膨大な裁判資料を、けい子さんが整理し、私たちが、譲り受け、新たな主任弁護士事務所に移した。
  遠藤弁護士の自宅は、はじめて訪れたが、まだ生前のまま、多くの資料にうもれた中に書斎があった。休日の土日は、数十年、着古しボロボロになった着物を着て、弁護書面をまとめる日に決めていた。全勢力を傾け、休むことなく弁護士としての使命をつらぬいたのである。
  晩年は、一人で、時折、庭に訪れるのら猫に、えさをあげるのを楽しみにしていたという。

  平沢が獄死した際、遠藤弁護士は、コルサコフ病という脳炎と自白と信憑性を、病理解剖し、調べるため、仮通夜の席で、各大学の病理学教室に電話をかけまくっていた。そして、通夜のはじまる五分前に、東大の病理学教室が、許可。しかし、東大は、検査結果を隠蔽、公表しないため、数年前、ようやく脳は返却され、遠藤弁護士は、精神医学者に検査をあらためて依頼したが、その結果を見ることなく他界した。(再審請求等、詳しくは自著「平沢死刑囚の脳は語る」に記されています)

  毎年夏、遠藤弁護士は、けい子さんと四国の48ヶ所の巡礼にまわっていた。そして、昨年は「いい死に場所をあたえてください」と、手をあわせ、祈っていたという。
  帝銀事件から55年、平沢救援に半生を捧げた実父・森川哲郎の死から、20年、養父・平沢の死からも15年、そして、遠藤弁護士の突然の死。
  私は、その遺志を受け継ぎ、さらに、権力犯罪と闘っていく覚悟である。
2002年5月30日記

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平沢貞通氏を救う会
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