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精神鑑定書全文
(1998年4月22日東京高裁へ提出)

秋元波留夫 東大名誉教授(精神病学)


内容

鑑定事項
鑑定主文
帝銀事件と精神鑑定
  1.公開された内村・吉益鑑定
  2.内村・吉益鑑定の要旨、結論
  3.内村・吉益鑑定に対する批判
  4.自白当時の精神状態に関する内村・吉益鑑定の検討
  5.精神鑑定以後の平沢の精神状態
  6.平沢の精神障害の精神医学的診断について
  7.内村・吉益鑑定の教訓
  8.おわりに
  文献

  秋元波夫氏略歴


これより「鑑定書」本文です

鑑定書


鑑定事項


1. 帝銀事件の確定判決において、「被告人平澤貞通がいわゆる自白をした当時の平澤貞通の精神状態が、平素の状態と大差のない精神状態であった」とした鑑定人内村祐之・同吉益脩夫作成の精神鑑定書が有罪認定の証拠として摘示されているが、その精神鑑定書の鑑定主文は、精神医学的観点から見て、正しいか。

2.平澤貞通の、いわゆる自白調書の内容は、精神医学的に見て、真実か。


鑑定主文

1.帝銀事件の確定判決において、有罪認定の証拠として摘示された内村祐之・吉益脩夫の精神鑑定書の鑑定主文は、精神医学的観点から見て、誤っている。
2.平澤貞道の、いわゆる自白調書の内容は、精神医学的に見て、虚偽である。


帝銀事件と精神鑑定

1.公開された内村・吉益鑑定

  帝銀事件の犯人とされ、死刑を宣告された平沢の裁判で重要な役割を演じたのが内村・吉益鑑定である。内村・吉益鑑定が平沢の死刑判決に影響したことを認めて内村18)は「平沢裁判の結果如何にというと被告人平沢貞通は真犯人と断定されて死刑の判決を受けたのである。それは、彼に責任能力ありとする、われわれの精神鑑定の結果が採り上げられたためでもある。控訴上告の結果も同様で、最終的に平沢の死刑は確定した」と書いている。このように書いたのは、内村が平沢を帝銀事件の真犯人と信じていたからだと思われる。
  内村はこの鑑定書の全文を「脱随脳炎後の空想虚言症について。大量殺人事件被告人の精神鑑定」という題で、1957年、昭和32年、日本精神神経学会の機関誌「精神神経学雑誌」17)に公表した(後にその一部は「日本の精神鑑定」19)に掲載)。その冒頭に前書きとしてこの鑑定書を学術誌に公表した理由が述べられている。

  ここに発表するものは、いわゆる帝銀事件被告人の精神鑑定の全文である。発表にいたった直接の動機は、近来、狂犬病予防接種後の脱随性脳脊髄炎その他の研究にあたって、本精神鑑定の引用される機会が出てきたので、その内容の正確を期したいというところにあった。しかし、同時に本鑑定例は、それ自体として精神医学、ことに裁判精神医学の重要問題を提起するものであり、したがってくわしく報告する価値があるとわれわれは考えるのである。
  本例は永年社会的地位の確立された一人の画家が、希有の大量殺人事件の被疑者となったものであり、その性格特徴として空想虚言的色彩がつよく認めらるものであるが、その既往歴には、本事件発生より約23年前に、狂犬病予防接種にひきつづいて重症の脳疾患に罹った事実があり、しかもその欺瞞性性格特徴が、この時期以後に顕著になったと推定される例である。そこで本鑑定の実施にあたっては、被告人の持つ性格とその発展について詳しく調査したが、この間われわれがもっとも重要視したのは、かかる既往歴をもつものの責任能力の問題であった。言うまでもなく重症な脳疾患を経過したものの責任能力については、今日なお見解の対立がある。そして多数の精神医学者は否定的見解をもっているといえよう。例えば最近でも、KretshmerやLeferenzが流行性脳炎後数年を経た例にあらわれた性犯罪を引用して、その責任能力の存在を否定しているのはその例である。しかしわれわれは本事件の鑑定の経験によって、脳疾患と責任能力との関連が一括的に簡単に論ぜられるものではなく、疾患の重軽、疾患後の経過期間、生活状態、犯罪の内容などを総合して、個々の例に対して個々の判断をするのが当然であると信ずるにいたったのである。われわれが本鑑定の発表を志した真の動機は、とくにこの点にある。
  本例はまた従来まったく未知であった狂犬病予防接種後脳炎の臨床や性格変化や病理解剖学についてのわれわれの研究の端緒をなしたものである。これらの研究はわれわれの教室で系統的にすすめられ、今日までに得られた知見は、本鑑定実施当時に比べて、はるかに広汎かつ精密なものとなった。しかし、その本質においては本鑑定と異なるものではなく、従って今日といえども本鑑定の結論に修正を加えるところはない。そこで被告人の近親者の氏名を一部分伏せた以外は、昭和25年に草した原文のままで発表することとした。精神鑑定の性質上、十分の時間がえられなかったために、字句その他末梢の部分に推敲の不十分な点があるし、また純学術的記述としては、文献の引用や専門的考察に欠けるところがあることを自覚するが、敢えて修正を加えることをしなかった。
  なお著者の一人内村は、Mezger,Buerger-Prinzなどと意見の交換をなしたことを附記する。
 
  この前書きは平沢の精神鑑定から8年後に書かれたものだが、平沢が内村らの発見した狂犬病予防接種後の脱随性脳脊髄炎なる重い脳疾患の既往歴をもつ精神障害者であるにもかかわらず、精神医学専門家の多数意見に反して責任能力ありと判断した理由を述べたものである。

2.内村・吉益鑑定の要旨、結論

  内村が東京地方裁判所第9部裁判長江里口清雄から私文書偽造行使、詐欺、同未遂、強盗殺人、同未遂、殺人強盗予備被告人平沢貞通の精神状態の鑑定を命じられたのは昭和24年4月1日のことである。
  鑑定を命じられるまでの経緯は次のようである。すなわち、平沢は昭和23年8月21日、滞在中であった北海道小樽市色内町の父平沢正太郎、実弟貞敏宅から小樽警察署に召喚され、出頭した際、同所において警視庁および小樽警察署の警察官に逮捕され、即日、警視庁に護送された。当初、平沢は警察官、検察官の厳重な取り調べに対して帝銀事件の犯行を否認し続けたが、逮捕から33日後の9月23日、帝銀事件の犯行を認めた。10月8日、警視庁から小管拘置所移送され、東京地方検察庁検察官の取調べを受け、10月12日起訴された。しかし、昭和23年12月10日、東京地裁第10号法廷で開かれた第1回公判で、平沢は自供を翻して帝銀事件についての犯行を全面的に否認、無実を主張した。
  このような経過と公判廷における平沢の態度から、裁判長は弁護団の申請を認め、精神鑑定に付することを決定した。精神鑑定を命ぜられた内村は被告人を東京大学医学部付属病院精神科病棟に鑑定留置して、東京大学助教授吉益脩夫と協同で鑑定に従事し、昭和25年3月20日、精神鑑定書を提出した。鑑定書の完成に1年弱を要した。江里口裁判長が鑑定人に命じた鑑定事項は次の通りである。
 左記時期における被告人の精神状態に異常があったかどうか、もし異常ありとせばその程度。

I  本件犯罪発生の当時
     1 昭和22年10月14日(安田銀行支店における強盗殺人未遂) 
     2 同年11月25日(詐欺)
     3 同年12月中(私文書偽造行使)
     4 昭和23年1月19日(三菱銀行中井支店における強盗殺人予備)
     5 同年1月26日(帝国銀行椎名町支店における強盗殺人)
II   被告人が検事に強盗殺人の犯行を自白した当時(昭和23年9月、10月)
III  被告人が催眠術が醒めたと称する当時(同年11月18日)
IV  本件公判当時(昭和23年12月20日より現在まで)

  普通一般の鑑定事項は犯行時と現在、すなわち、この場合のTとWであるが、U、Vのような自白に関する精神状態の鑑定は比較的めずらしい。この裁判で自白の真実性が問題であったから、裁判長はこの点に留意して、特にこの鑑定事項を加えたものと思われる。裁判長からのこれら四つの疑問(鑑定事項)に対する内村・吉益鑑定の意見(鑑定主文)は重要であるから、原文通り示すと次のようである。

鑑定主文

I.本件発生当時、すなわち、1 昭和22年10月14日、2 同年11月25日、3 同年12月、4 昭和23年1月19日、5 同年1月26日における被告人の精神状態は、大正14年に受けた狂犬病予防注射によって起った脳疾患の影響による異常性格の状態で、その特長は顕揚性ならびに発揚性精神病質に相当するもので、その最も前景に立つ現象は欺瞞虚言癖と空想性虚言症である.但しその程度は自己を統御する能力の著しく減退した状態と言えるほど高度のものではなかった。

II.被告人が検事に本件強盗殺人の犯行を自白した当時(昭和23年9月、10月)の精神状態は、被告人の異常性格である欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された形で示されていた以外には、平素の状態と大差のない精神状態であったし、殊に自白が催眠術下になされたことを証明すべき何等の根拠はない。また自白の真実性については、これを被告人の性格に照して、精神医学的立場のみからは決定的判断が困難である。

III.被告人が催眠術が醒めたと称する当時(同年11月18日の精神状態は、2において述べたと大体同様の精神状態であったと思量する。
IV.本件公判当時(昭和23年12月20日より現在まで)の精神状態は、2および3において判断された精神状態と大体同様のものである。この期間中に仮性幻覚または妄想を想わせる病的着想を示すことがあったが、これは軽い拘禁反応と見做さるべきであり、かつその程度は自己を弁護する能力に支障を与える程のものではない。
 右の通り鑑定する。

  この鑑定主文が一審の検察官の論告、死刑求刑の根拠に援用され、爾後一審から三審にいたる裁判で、平沢本人の一貫した無実の訴え、弁護団の強硬な反論にもかかわらず死刑判決に決定的影響を与えたことは間違いない。
  裁判の経過は次のようである。すなわち、一審の死刑判決が下ったのは昭和25年7月24日、鑑定書提出から4月後のことであるが、弁護団は直ちに東京高裁に控訴する。しかし、東京高裁はこれを却下、昭和26年9月29日、再び死刑を宣告する。弁護団は直ちに最高裁に上告したが、昭和30年4月6日、上告棄却となる。同年5月7日、弁護団は異議申立を行ったが却下、死刑が確定する。平沢が逮捕されてから7年の歳月が過ぎ、彼は63歳となっていた。それから32年という長い年月を死刑囚として過ごし、ついに自由の日を迎えることなく獄死する。95歳であった。

3. 内村・吉益鑑定に対する批判

  被告人平沢貞通が狂犬病予防ワクチン接種による脱髄脳脊髄炎の既往暦を有する精神障害者であるにもかかわらず、完全責任能力を認めた内村・吉益鑑定には、当然のことながら精神医学専門家からの批判、反論が向けられた。内村の弟子で、狂犬病予防ワクチン接種後脱髄性脳脊髄炎の共同研究者である白木博次の神経病理学の立場からの批判(1954)16)は朝日新聞記者矢田喜美雄によって同新聞(1954年3月22日号)に掲載され、後に矢田が法務大臣に平沢の再鑑定を上申した際の拠り所となり、精神医学者で、心理学者の宮城音弥(1969)10)11)は、責任能力、および自白の信頼性に関する見解について心理学の立場から厳しい批判を加えた。吉田・西山(1972)22)は内村・吉益鑑定書を仔細に検討して、生活暦および現在症に記載された被告人の行動の異常はその程度が甚だしいもので、到底責任能力を認めることはできないとして、観察記録と結論の矛盾、不一致を指摘して、鑑定書は「病歴から現在症にいたる観察から、これに対する責任能力の考察に移るにあたって、明らかな屈曲を示している」と言い、内村は社会防衛的見地を優先して学問を曲げたのではないかと批判している。
  私自身(1982)1)も内村・吉益鑑定書に批判を加えたが、批判の根拠の一つは内村の弟子でその指導によりまとめられた東大精神科の春原千秋の学位論文「狂犬病予防注射による脳炎の精神障害について」5)の記述と内村の評価、判断の間のくいちがいである。春原はこの論文で平沢の病歴と現在(昭和24年当時)の病状を詳しく記載し、次のように要約している。

  発病当時 38歳の男子画家。18回の狂犬病予防注射終了後数日して発病し、意識障害、Korsakow症候群、上下肢の不全麻痺、視力障害などを主徴とする急性期症状が現れたが、これらは約5か月でおおむね回復した。しかし、その後に著しい人格変化認められ、それが病後30年を経過した今日まで変わることなく続いている。その人格変化を要約すると、病前からあった循環性気質と顕揚性性格が病後一層顕著となり、さらに強い誇大的傾向と自己感情の亢進、虚栄心、誇張癖、芝居じみた態度などが現れて現在に至っている。

  春原が調べた症例のうちで、平沢は社会的適応性を欠き、人格変化の著しい症例に分類されている。このように、平沢の病状について春原の記述と鑑定書での内村の結論との間に大きなくいちがある。もう一つは吉田・西山も指摘したように、内村・吉益鑑定の結論である鑑定主文の記載と本文の病状、現在症の記述の間に著しいくいちがいがあることである。本文の病状、現在症の記述は前記春原の記載によく一致しており、平沢の精神障害が「著しい障害」であることを示している。内村・吉益鑑定の本文の病状、現在症の記述から引き出される責任能力の判断は鑑定主文に記されている「自己を統御する能力の著しく減退した状態と言えるほど高度のものではなかった」を到底容認できるものではない。

以上が私の意見であり、今も変わっていない。

  原田(1983)4)はその論文「器質性精神障害と責任能力」で、内村・吉益鑑定書の事実記載および春原論文の記載によって判断すれば、平沢の精神障害の程度は軽いどころではなく、したがって当然完全責任能力を認めるべきではないという吉田・西山22)および秋元1)の見解は説得的である。おそらく多くの人が同意せざるをえないであろう、と述べている。
  法律家では、弁護士北潟谷仁(1987)8)の的確な批判がある。彼はまず、内村・吉益鑑定は「平沢の人格変化が狂犬病ワクチンによる脳の器質的疾患によると認めながら責任能力が限定される程高度のものではないとするが、この意見は妥当であろうか。この疑問は本鑑定書を検討した者にとって等しく感じられるところと思われるのであるが、裁判所は右鑑定意見を採用して完全責任能力を認定し、死刑を宣告した」と指摘し、「私は右に対する最大の批判は右鑑定書自体が蔵していると考える。即ち、右鑑定の結論(鑑定主文)は完全責任能力を主張するけれども、鑑定書中の既応歴・現在症等の事実記載は、平沢において生じた重篤な脳疾患とそれによる深刻な人格変化を余すところなく説明している。してみれば責任能力の生物学的要素においても、また心理学的要素のうち主として制御能力の面においても著しい限定が認められ、心神耗弱と考えることが自然であろう。私は本鑑定が自己矛盾を蔵していると考える。それでは何故そのような矛盾が生じたか。ここで誰もが考えることは、本鑑定が二名の共同でなされたこととの関連であろう。共同鑑定人のうち内村はその後も本鑑定に言及して、自らこれを擁護しているが、吉益は(私の知る限り)この問題について全く発言していない。私は、吉益が真に本鑑定の結論に同調したのであろうか、との疑問を禁じ得ないのである」として、既応歴・現在症等の事実の記載(おそらくは吉益の執筆)と考察、結論の記載との矛盾の根元に鋭い洞察を加えている。
  「私が本件精神鑑定について最も興味をひかれるのは、内村・吉益に対する批判が(宮城は別として)鑑定人らの教室の弟子など身近な人達によってなされてきたことである。例えば白木は内村の直弟子で前記疾患の共同発見者であるし、秋元も内村の直弟子で内村の後任として東大精神医学教室教授を勤めた人であり、吉田・西山もこの教室の孫弟子にあたる由である。この鑑定が謂わば身内の弟子達によって厳しく批判されているのに対し、これを擁護する意見が全く聞かれないのである。これは誠に稀なことであると言わなければならない。前記疾患を身近に知る医師達にとって、平沢の死刑を放置することが正義に反すると感じられた故ではないかと思われるのである」と述べて、北潟谷は平沢の死刑判決は間違った精神鑑定の「誤用」に基づく裁判所の誤判であると断じている。
  内村・吉益鑑定に対する批判は以上に略述した被告人平沢の責任能力の問題だけにとどまらない。そもそも平沢は検察の取り調べの段階では帝銀事件の犯行を自白したが、一審で自白を翻し、無罪を主張していたのである。この無実の訴えの真実性を判断するために、一審の裁判で自白当時の精神状態の異常の有無、程度が鑑定事項に加えられたものと思われる。これに対する内村・吉益鑑定の見解は宮城(1969)10)11)、吉田・西山(1972)22)が批判を加えているが、北潟谷(1987)8)は、鑑定事項たる「自白当時の精神状態」にとどまらず、自白の真実性自体に関する主観的印象を述べることは鑑定事項を逸脱したと言わざるをえない、と厳しく批判している。もし、これらの批判のように自白当時の精神状態に関する内村・吉益鑑定に誤りがあるならば、この鑑定結果を拠り所とする平沢の有罪判決は誤判ということになる。平沢の再審を求める運動は現在も続いているのであり、内村・吉益鑑定の「自白当時の精神状態」に関する見解の妥当性に再吟味を加えることは、再審請求の重要な根拠になるに違いない。項を改めて.平沢の自白当時の精神状態に関する内村・吉益鑑定の見解を検討して、私の意見を述べることにする。

4.自白当時の精神状態に関する内村・吉益鑑定の検討

  裁判長から命ぜられた鑑定事項(2)の「被告人が検事に本件強盗殺人の犯行を自白した当時(昭和23年9月、10月)の精神状態」に対しては「被告人の異常性格である欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された形で示されていた以外には、平素の状態と大差のない精神状態であったし、殊に自白が催眠術下になされたことを証明すべき何等の根拠はない。また自白の真実性については、これを被告人の性格に照して、精神医学的立場のみからは決定的判断が困難である」、また鑑定事項 (3)の「被告人が催眠術が醒めたと称する当時(同年11月18日)の精神状態」については「2において述べたと大体同様の精神状態であったと思量する」というのが内村・吉益鑑定の見解である。
  この見解には明らかに矛盾がある。自白当時の精神状態が「被告人の異常性格である欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された示されていた」と「平素の状態と大差がない」とは論理的に相反するからである。「一層誇張された」状態は平素の状態と差があることにほかならない。その当否は別として、平沢の自白当時の精神状態を「欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張されて示されていた」とする鑑定人の判断から導かれる当然の帰結は「平素とは異なる状態」でなければならない。さらに「欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された」状態での自白が信頼できないのは理の当然であるにもかかわらず(その言動が信頼できないのが「欺瞞癖と空想性虚言症」の特徴であることを鑑定人は「考察の説明」の項で繰り返し説いている)、「自白の真実性については、これを被告人の性格に照して、精神医学的立場のみからは決定的判断が困難である」としているのは納得できない。「欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された」精神状態での自白が真実性に乏しいことは精神医学の常識であろう。「精神医学的立場のみから」十分判断が可能である。
  平沢の自白当時の精神状態を「欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された」状態だとする鑑定人の判断の帰結は自白の真実性は疑わしいでなければならない。ところが、鑑定人自身がこの論理的に当然な帰結に反するばかりでなく、自白の真実性の判断は困難であるとする鑑定主文と矛盾して自白の真実性を支持する意見を本文の司法精神医学的考察で述べているのは論理の破綻というほかはない。次にそれを引用しよう。

  「最後に被告人が帝銀事件の犯行を自白した時の心理について些かつけ加えておきたい。客観的にはこの自白の真実性を印象づける心理学的資料に乏しくない。しかし、この判断に当って一応の考慮を必要とするのは被告人の性格である。繰返し述べるように、被告人の性格特徴の中心をなすものは虚偽と不真実であるから、被告人の多くの言行の中から、「自白」の一点のみを真実と判断することは、他の性格の人々の場合に於けるより慎重でなければならない。つまりこの「自白」もまた虚偽であるとの可能性が考えられるからである。この種の事実は文献上にも指摘されている。すなわち空想虚言者が世間の関心を得たい性向から、無実の犯罪を自白した事例がある。例えばグラスベルガーは、かゝる性格のある詐欺常習者が拘禁中一つの殺人を自白したが、後年にいたってその無実であつたことの判明したことを記載しているし、またバイエルは35歳になる1人の下男が無実の醜悪な性犯罪を自白した事例を記載している。それ故にこの種性格者の自自の真実性の判断には一段の慎重さが必要である。
  しかし、他方においては、同じ虚偽的性格でも、空想虚言症の要素が強ければ強いほど、前に述べた可能性があるのに、その性格内に欺瞞癖が多分に併存すれば、この人は同時に利害にも敏感であるから、自己に不利である無実の自白をする可能性の極めて低いことが当然考えられるし、またひとしく空想虚言症であっても、壮年に赴くほど現実的生活態度は強められ、従って自己に不利益な空想が抑制せられることも心理学的事実として考えられることである。そしてこの2点は鑑定人らが被告人の性格全般を通観して印象づけられたところなのである。
要するに、鑑定人らは被告人の自白の真実性を判断すべき決定的手段を有しなかったし、加うるに被告人の空想虚言的性格特徴を省みて、その判定の然く容易でないことを感ずるのであるが、同時に自白時の全般的状況と被告人の利己的欺瞞癖とを考慮すると、この自白には空想虚言者の単なる虚偽の所産とは考えられぬものがあるとの感を深くしたのである」。

  ここでも奇妙な論理が展開されている。「被告人の性格特徴の中心をなすものは虚偽と不真実であるから、被告人の多くの言行の中から、「自白」の一点のみを真実と判断することは、他の性格の人々の場合に於けるより慎重でなければならない。「自白」もまた虚偽であるとの可能性が考えられるからである」といって、虚偽の自白で有罪となった文献例まで挙げながら、平沢については性格の一部である利己的欺瞞癖を考慮すると自己に不利である無実の自白をする可能性は極めて低く、「この自白には空想虚言者の単なる虚偽の所産とは考えられぬものがあるとの感を深くしたのである」と自白の真実性を支持する見解に変わっているのである。問題は一審から最高裁に至る裁判で、自白の真実性の判断について、鑑定主文ではなく、この「考察と説明」の項で述べられている自白の真実性を支持する鑑定人の単なる主観的印象(鑑定人は「自白の真実性を判断すべき決定的手段を有しなかった」と述懐している)が一審から最高裁に至る裁判で何の疑義もなく採用され、平沢を自白以外に物的証拠のない帝銀事件の真犯人と決定する決め手とされたことである。せめて、鑑定主文に明記された「自白の真実性を判断することが困難である」とする見解(実際は「真実性に乏しい」のだが)が裁判所で採用されたとすれば(本来そうあるべきである)、自白を平沢有罪の決め手とすることは不可能であったであろう。
  ここで、平沢の自白当時の精神状態について、さらに竿頭一歩を進めて検討してみよう。まず、内村・吉益鑑定は自白当時の精神状態を「被告人の異常人格である欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された形で示された」状態としているが、欺瞞癖と空想性虚言症の誇張だけであったかどうか、誇張されたとすればその原因は何かが検討されなければならない。
  鑑定書本文中の「被告人の陳述 E.逮捕から検事の取調べの終るまでの期間の陳述、および F.拘置所移送以後、公判期間中の陳述」を読むと、「のぼせていたのではっきりしません」、「ガラスペンで動脈を切った」、「頭が混亂して生きているのが苦しくなった」、「眞犯人となり、處刑されて早く死にたい」、「毎晩不眠に悩まされました」、「高木檢事の催眠術にかゝりついふらふらと"あゝそれでは俺は犯人だな、それでは殺して貰えるのだな"と思いました」、[全く記憶がありません。とに角"ごもっとも時代"でしたから、何でも檢事のいうまゝを自白しました]、「菩薩が夜現われた」、「佛様が見える」、「夢幻のようなものです」、「自分が犯人だと威張っていた頃は、途中で"あれが帝銀の平澤だ"と言われても平然として肩を張って歩いていたらしい」などの奇妙な発言が多いが、鑑定人は前述のように、すべて「平沢の異常人格である欺瞞性と空想性虚言症の誇張」として解釈した。 
  特に自白の真実性と直接関係する「高木檢事の催眠術にかゝり云々」の発言について鑑定人は「かかる現象がはたして可能であるかどうか、また可能であれば如何に解釈すべきかが問題である」として、これを否定する見解を「考察と説明」の項で次のように詳しく論述している。

  犯行を自白した当時(昭和23年9月、10月)および催眠術が醒めたと称する当時(昭和23年11月18日)の被告人の精神状態は如何であったであろうか。この点について以下考察して見よう。それには昭和23年8月26日より同10月9日に至る期間における被疑者に対する検事の聴取書、当人の手記ならびに「ありのまゝの記」、公判記録、第2の手記(事賦記)および被告人の鑑定人に対する陳述を主として基礎とした。先ず被告人にとって最も重要な陳述は、検事の取調べ中、催眠術にかゝって全く心にもない事を述べたと称する点である。
  公判廷での被告人の陳述によると、坐薬を飲んで第3回目の自殺を企てたが失敗に終り(9月25日)、それからは犯人になって殺して貰うより仕方がないと考え、犯人になることに決心したと述べ、その翌日であったか、検事に「平沢、犯人はお前だ」と大きい声で言われて催眠術にかゝり、それからは検事の言う前に胸の中がよく判って来たので、高木検事の思っている通りの調書が出来上ってしまったと述べ、次に「それから11月18日であったと思いますが、風船が破裂したような音がプッとして始めて自分が判り、これはとんでもないことだ。本当に俺は犯人にされたのだ。もし本当の犯人が出てまた悪いことをすると国家的に申訳ないことになると思いました」と語っている。
  ところが総ての記録を通じて、平沢の陳述には催眠術にかゝったと称する時期の前から、同時期を通じその後に至るまで、何処にも記憶の欠損すなわち健忘症と思われるものを認めない。その間事象と体験の供述は連続して詳細である。従ってこれらの記録を通覧すると、催眠状態と称する時期と平素の状態との間に、その意識状態において何等かの差異があったとは到底認めることは出来ない、また犯人になり切った人格と本来の人格との間にも、交代性人格(俗に二重人格と言う)に見るような明劃な差別は全く認められない。のみならず、この時期においても検事の取調べに対して、被疑者は全力を尽して自己を防禦している。そして時々怒り、憎悪、敵意などの感情を表わしたようである。このような反対的な感情関係において催眠状態が成立することは極めて不自然であって、日常の専門経験とは全く相容れぬものがある。また催眠状態から覚めたのは50日以上を経た後であり、しかも特別な精神的刺激がなく「お昼御飯の時熱いお汁かなんか飲んだ時と思います。風船がパチッと破れたように、すうと芝居の緞帳が上った様な気になつて覚めたのです」と語っている。一体50日以上も施術された催眠状態が継続するということはほとんど考えられないことでもあり、また覚醒時の体験と称するものも同様であって、全体がいかにも作為的に思われる。

  この論述で鑑定人が平沢の「自白が催眠術下になされたことを証明すべき何等の根拠はない」というのは至極当然である。高木検事が精神医学的、あるいは心理学的意味での催眠術を用いるはずがないし、その証拠もないからである。鑑定人が言うように「50日以上も施術された催眠状態が継続するということはほとんど考えられないこと」である。しかし、検事が催眠術を用いなかったからといって、「検事の催眠術にかゝって全く心にもない事を述べた」という平沢の告白をすべて「空想的虚言」として一蹴してよいものだろうか。鑑定人も引用している「平沢貞通検事聴取書」(自昭和23年8月26日至昭和23年10月9日)を順を追って精読すれば、平沢が「検事の催眠術にかかった」というのもあながちでたらめではないことがわかるだろう。帝銀事件の犯人であることを認めたのは8月21日の逮捕から一ヶ月以上経った昭和23年9月23日だが、犯人であることを認めておきなながら、肝心の犯行の手口、動機など具体的事実に関する供述には嘘が多く検事にたしなめられては訂正し、二転、三転していることが注目される。例えば使用した薬物もはじめは塩酸といい、あとから青酸加里と訂正しているし、薬物を入れた壜を茶色のオキシフルの壜といい、あとで透明な壜と言い換えている。犯人であることを認めた以上犯行の仔細にいて嘘をつく意味はなく、まったく不可解な話だが、鑑定書本文中「E.逮捕から検事の取調べの終るまでの期間」の項に記載されている、鑑定人の(高木檢事の取調べは?)という問いに対する次の平沢の陳述はこの疑問をはらすのに十分である。

  「檢事の訊問に對する答は、一つとして自分から述べたことはありません。皆誘導されたもので、彼は"俺は誘導はしない"と言いながら、印鑑を押させるという具合です。地圖は自分で書いたものですが、あれも(これだろう?)と言って書かせるのです。中井銀行の場所も東京地圖を開いて見せたので、一番近い道をマークしたにすぎません。銀行内の圖面は記録にある通りです。彼の眼は蛙を見る蛇の目のようで、話の途中に落し穴を作っておき、私の顔色を窺って、心の動揺をじっと見つめているのです。彼の調べが苦痛で、その上頭が混亂して生きているのが苦しくなり、早くこの檢事から逃れたいと思い、死にたい、死にたいと考えていましたが、その機會がなかったのです。ところが自白しそうな風を見せたら、風間龍君(平沢の妻の実弟―秋元)を呼んでくれたので、彼に向って"私は犯人ではない!"と叫びながら、傍の柱に頭を打ちつけたのです。ところが脳震盪すら起きなかったので、下劑を飲んで自殺を計ったがこれまた失敗でした。何度も失敗したので、この上は眞犯人となり、處刑されて早く死にたいと思う様になりました。その頃は父母のことなど色々と考えて、毎晩不眠に悩まされました。大體1日1時間半位でしよう。 全く眠れぬ晩も七、八日はありました。遂には支えて貰わねば歩けぬ位になりました。毒藥の取調べも隨分ひどかつたですよ。黄色い藥だと言われたので、"塩酸"と言つたのですが、"そんな筈があるか"と言われたので、"それでは青酸加里だ"と答えたのです。入手先も出鱈目に、野坂、吉田を引き合いに出したに過ぎません。殺人の動機も無理に作らねばならぬので、女の名前を出鱈目に擧げたのです。小池まさえとは殆んど關係がないし、お染という女も實在しません。辻褄を合わせるのに隨分苦心しましたが、結局本當のことは鎌田一人です。

  9月27日の調べの直前だと思いますが、高木檢事の催眠術にかゝり、彼に"お前は眞犯人だぞ"と睨みつけられて、ついふらふらと"あゝそれでは俺は犯人だな、それでは殺して貰えるのだな"と口走りました。これを公判で同じ辛い思いをしている御子柴が聞いて同情し、思わず涙を流しましたが、その聲をきいて私も悲しくなり、ぽろぽろ泣き出してしまいました」。

〔休憩〕

(犯人だと自白した時の心境は?)

  「有難い。これで自分で死なずにすむなと思い、氣持が樂になりました。自分も檢事から催眠術をかけられたり、"さあ、お言い、お言い"とやさしく責められて、何だか眞犯人の様な氣がして、それ以後は全く真犯人氣取りでした。それからその晩檢事の暗示と新聞記事を想い出して、一言、一言自白したわけです。事實と違うところは良い加減に述べたにすぎません。例えば清水虎之助という名前は、清水だけは確かですが。虎之助は小樽の清水虎藏からヒントを得たのです。前に触れた金の件も、吉田の肖像代と花田の金では帝銀から奪つた金額に達しないので、何處かで幾ら幾らと辻褄を合わせるために、買物をした事にしました」。

(何から先に自白した?)

  「全く記憶がありません。とに角"ごもっとも時代"でしたから、何でも檢事のいうまゝを自白しました。荏原銀行の廣告の看板を見たと述べると、何處で見たかと尋ねるので、良い加減に"祐天寺"と答えると、驛の廣告看板は西小山と他に一つの驛しかないと言われたので、"それでは西小山でした。"という具合いです。"驛の何處で見た?""ホームで、""嘘をつけ看板は階段にしかないぞ""それでは階段で見たのです"、すべてこんな調子ですよ。"西小山から銀行へ行ったならその地圖を書け"と言うので、良い加減の地圖を書くと、"これは嘘だ"と言われ、證人が"武藏小山からだろう"と言ったので、"あゝ武藏小山でした。小山違いだ"という調子です。地圖を見せられたので、鉛筆で印をつけました。この様なことは證據品にも澤山ありました。荏原の時の毒藥瓶もオキシフルの瓶と言ったところ、"透明な瓶だろう"と言われて透明な瓶を示されたので、"その通りです"と答えました。スポイトもその例に漏れず、"ピペットではなくて萬年筆用のスポイトではないのか"と言われ、"あゝそうです"と答えておいたのです。服藥時間も新聞に2分と書いてあったので、始めは2分と言ったところ、檢事が"1分だろう"と言うのでその通り1分にしたわけです」。

  この平沢の陳述を鑑定人は真実ではないとして信用しなかったであろうことは、鑑定人の次の記述から推定に難くない。

  検事の取調べは脅迫と精神的拷問とは見られず、最初被疑者に充分自己の正しいところを証明すべく陳述させた上、その真偽を確め虚偽の陳述を追求するというやり方であったが、平沢は真実を述べなかったため窮地に陥ったと見なければならない。かくして苦悩のため睡眠も一層障碍されたと思われるが、その陳述には平素と異るような智的活動の障碍があったとは認められない。警視庁看守係巡査の動静報告書によると、平沢の精神状態は全部自白した後には前と比べて明瞭に平静となり、熟睡していることが認められる。これなども真実を告白した場合と異るところがない。

  鑑定人は「検事の取調べは脅迫と精神的拷問とは見られず」としているが、平沢も脅迫や拷問があったとは言っていない。彼がこの陳述で訴えているのは検事の巧みな「誘導」(警察、検察では取り調べの常套手段であり、必ずしも違法ではない)に抵抗できず、でたらめの「犯行」を「自白」した経緯である。鑑定人は「平沢は真実を述べなかったため窮地に陥った」としているが、平沢は自分は犯人だと思い込んでいるのに実際は犯行を知らないのだから真実を述べることができず「窮地に陥った」と解すべきである。真実を述べなかったのではなく、真実を知らなかったのである。犯行の供述が二転三転して、でまかせであるのは犯行の事実を知らないためだとしか解釈のしようがない。

  以上に述べたように、平沢貞通検事聴取書および鑑定書本文中の平沢の陳述を照合すると、平沢が「催眠術にかけられた」というのは、検事の誘導によって「犯行」についてでたらめのを供述しなければならなかった心境の表現であることが瞭然とする。「催眠術にかけられた」というのはあくまでも平沢の主観であり、それ故、「自白が催眠術下になされたことを証明すべき何等の根拠はない」のは当たり前である。しかし、 催眠術は行われていないが、平沢が被暗示性の亢進した状態にあったことを推定させる所見は鑑定書、警視庁平沢貞通動静報告書に散見する。鑑定書本文の「被告人の陳述 E.逮捕から検事の取調べの終るまでの期間の陳述」のなかで、鑑定人の(そんなに簡單に誘導される?)の問いに平沢は「昔から私は自己暗示にかゝり易い性質で、例えば經文を唱えているうちに、知らず知らず自分が催眠術にかかって、清らかになった様になるのです」と答えている。ここでも催眠術という言葉が使われているが、それは暗示にかかりやすい、という意味である。鑑定人の(自白の頃の氣持ちは?)に対する平沢の陳述「菩薩が夜現われて、"實相はあくまでも實相で、お前が何と言っても私は皆知っているぞ"と言うのですが、その時は有難くて、思わず自分は拜む姿勢になっています。だから半分夢でも半分は氣がついているのでしよう。夢幻のようなものです」も自己暗示の状態として理解できる。この「思わず自分は拜む姿勢になっています」という平沢の陳述を裏付けているのは「警視庁平沢貞通動静報告書(自昭和23年8月25日至昭和23年10月6日)」に書かれている次のような看守勤務巡査の報告である。

「立て膝にて安座し神仏を拝礼するが如く、両手を合わせて軽く額につけ黙とうす」(9月3日午後4時20分)

「神仏を礼拝するが如く両手を合わせしばし黙とうせり」(9月5日午前10時5分)
「常時何事かを考え居り、両手を合わせ、頭を下げ何事かを祈りおりたり」(9月8日午前9時-10時)

「目を閉じ、口の中で何か言っており、顔に手を当て考えごとをしている」(9月8日午後2時-3時)

「布団の上に正座して、両手を合わせて何か拝んでいる」(9月25日6時40分)

「横臥のまま、両手を顔の上で合掌、目を閉じ黙とうをなす」(9月30日午後11時40分)

「寝具の上に正座し、西の方に向かって合掌し約3分ぐらい黙とうする(10月1日午前6時50分)

「床の上に正座し、西の方に向かって合掌し、約2分ぐらい黙とうしたる後横臥す(10月2日午前10時5分)

「就寝前西方に向かい正座、両手を合わせてお経を唱える(10月2日午後9時40分)

  この報告を読むと、自己暗示による夢うつつの状態(平沢の言う「夢幻」)は、9月はじめから認められるが、10月1日以降 (「犯行」の「自白」をはじめたのが9月23日)、西方に向かって合掌といった、死人を供養するような「拜む姿勢」に変わっていることがわかる。又、「平沢貞通検事聴取書」に平沢の陳述として次の記載がある。

  「毎晩この頃2人か3人宛帝銀の亡くなった方が出ていらっしゃいます。私、幽霊などということは思っていませんけれど、ありありと私の目に見え、寝ている私に乗って来られるような気がします。毎晩手を合わせて拝んでおります」(9月25日、第39回聴取書)

  「昨夜は2時半頃まで眠りました。昨夜出て見えたのは2人でした。俺の苦しさをお前にも判らせる知らせるために、死刑の時は青酸加里で殺して貰えと云われました。」(9月26日、第42回聴取書)

  「昨晩は仏様が出て見えました。お書き取り願えませんでしょうか。『吾が雲を清ませ給ひ御仏の手招き給ふ法の大道』。御調べから帰ってきましたら、進駐軍が入ってきてがたがたして眠られず、12時の時計が打ってからウトウト致しました、その中に足はしびれる胸は苦しくなると、また4人出て来られ、私に何か言おうとしておられるので、私は合掌して赦して下さいとお詑びをしていたら、ボーと明るくなって来たので見たら法隆寺の壁画の様な方が背光を放って立っておられます。その光を浴びて亡霊は消えてなくなってしまいました。仏様は口をお開きになって、平沢、平沢よくお聞きよ、貴方は今一生懸命清くなろうとしている事は判っている。しかしこの間、この壁に書いた遺書を御覧……犯人でない等と特に大きく書いたではないか。貴方はそういうことでは人は誤魔化せても私達を誤魔化せぬ。第一貴方自身が誤魔化されないではないか。……」(9月27日、第45回聴取書)

  これらの平沢が検事に述べた体験を鑑定人は「考察と説明」で「このようなかなり詳しい物語りは実際の体験の忠実な記述とは考えられず、被告人の誇張的虚偽的性格の表われとも思われるが、かりにその一部が事実だとしても、これに類する現象は睡眠への移行期に正常者にも見られるもので、これのみで病的現象ということは出来ない。或は夢に見たことを修飾して物語りとしたのかも知れない。とに角窮境に立って一層活溌に発揮された被告人の空想性思考の産物と見做すべきであると思う」と述べている。この見解には私も異存がないが、重要なことはこれらの陳述が「空想性思考の産物」だとしても、この時平沢が自分は帝銀事件の犯人だと思いこんでいたことを示していることである。

  10月3日の担当巡査の報告(平沢貞通動静報告書による)に「小職、平沢に対して、あまり心配しないで身体を大事にするんだね。今はもう静かに法の裁きを待つんだね。それでこそ今は亡き仏に対する供養にもなり、亦罪の償いにもなるのだからね、と告げ、云々」とあるように、周りからは平沢が真の犯人であり、罪を悔い、犠牲者の供養をしているものと思われていたに違いない。まわりだけでなく、平沢自身が当時自分は帝銀事件の犯人だと思いこんでいたことをはっきりと物語る重要な記録がある。それはこの事件の主任弁護人山田義夫の手記21)と談話20)である。その要旨は次のようである。

  山田弁護人は平沢が警視庁の取り調べで帝銀事件の犯行を「自白」した後小管拘置所に移送されたその日(10月8日)、すぐ小管拘置所に赴いた。平沢の自白した心境をただし、もしもそれが真実の自白なら、手を引くか、弁護の方向を切り換えなければならないと思ったからである。ところが、小菅拘置所の教育部長が今日の平沢は拘置所に移藍されたばかりだからでしょうか、まるで精神錯乱の状態で、発狂状態ですから、お会いになっても無駄でしょうというので、面会はあきらめて帰った。一週間後、山田弁護人は弁護団の高橋弁護人を同伴して小管を訪ね、平沢と面会した。 二重の金網ごしの向こうの平沢は憔悴しきっていた。その眸はおどおどとなにかに怯えているようであった。山田弁護人が事件について尋ねると、以前と同じように無実だというので「では、なぜ君は検事に、犯行を認め、自供したのかね。あんなに長い間、がんばり続けたのに」と言うと、とたんに平沢の眼が異様に輝いて「私は帝銀事件の犯人です。私は相手の言葉次第で、犯人にも、何にでもなります」という。 これを聞いた山田弁護人たちは唖然として「でも、君はいままで無実だと言っていたではないか」と言うと、 平沢は「いま気が変わりました。これからは犯人にならせてもらいます」と答え、それから犯行場面を話しだしたが、それは帝銀事件とは全く関係のない別の犯罪事件であった。

  山田弁護人のこの話は、平沢が警視庁から小管拘置所に移送された当時、帝銀事件の犯人になってやるなど、到底まともに話のできない異常な状態にあったことをよく伝えている。鑑定書本文の「被告人の陳述 E.逮捕から検事の取調べの終るまでの期間の陳述」の中で、平沢は「山田氏と高橋氏(山田弁護人と高橋弁護人のことである一秋元)が一緒に來た時には、"私は犯人だ"と威張ったそうですが、憶えがありません。山田氏の話では、"なんとかかんとかいうのは未の未で、とに角私は帝銀の犯人だよ!"と言ったのでびっくりしたとのことです」、あるいは「自分が犯人だと威張つていた頃は、途中で"あれが帝銀の平澤だ"と言われても平然として肩を張って歩いていたらしい」などと、当時のことについて記憶の部分的欠損があることを示す陳述がある。これらは「自白」当時、記憶の欠損を伴う意識障害(夢うつつの状態)が、持続的ではないが、存在したことを示す所見である。

  以上に論じた「自白」当時の異常な精神状態は鑑定書ではまったく論及されておらず、平沢貞通検事聴取書その他に記載されている平沢の次のような陳述が鑑定書の「考察と説明の項」で「逮捕以来見られた異常な精神現象」として取り上げられている。
「大変なことを見つけました。頭が割れそうですな。帝銀事件なんか、ちっぽけなものです。私は高橋是清と犬養毅をやっつけております。まあ死刑になるでしょう。居木井さんにやられるかと思ったが、検事さんも良い方だけれども、途中で裏切っちゃったからなあ、頼りにするところがなくなっちゃったからねえ。12時ごろ寝て2時半ごろ思いつきました」(検事の問い「昨夜は眠れたか」に対する平沢の答え、昭和23年8月29日第5回聴取書)

  「何処にいたでしょうね。これも夜中にならないと思いつかないでしょう。検事さん。居木井さんは、僕の長女を妾にしているというが、本当ですか。何だか刑事さんから聞いたような気がします(この時検事は不知なる旨答えられたり)(「林輝一は戦争前何処にいたか」に対する答え、昭和23年8月29日第5回聴取書)

  「検事さん、私が考えたことでまだ一つ、二つ世の中のためになることがあると思いますからお聞き取りくださいませぬか。卵に味をつけて産ませることです。牛でも豚でもよいから切り出して買い、メンチにして塩と砂糖と味の素を入れてから煮て、カラカラになったのをフスマでも糠でも良いから混ぜて食べさせ翌日産んだ卵を取るという訳です。原始動物ほどできるのですね。これはよいメジュームを作ろうとして偶然に発見したことです。それから染め物をするのに味の素を入れるとむらができませんよ」。(昭和23年9月23日、第34回聴取書)

  これらの陳述について、鑑定人は「考察と説明」で「この虚偽の告白はあまりにも荒唐無稽であるから、よく被疑者に見られるような意識的に他への転導を目的とするものとは考えられず」、「仮睡時によく見られる仮性幻覚や、期待と不安等に起因する妄想的着想であって広い意味では拘禁反応に属せしめることが出来る」としている。しかし、鑑定人が「拘禁反応に属せしめることが出来る」としたこれらの「虚偽の告白」は、鑑定人が平沢を「空想性虚言症」と診断する根拠とした「辻強盗の話」、「放火の嫌疑を伯父へ転嫁した話」、「船底塗料を発明した話」、「帝室技藝員と稱して画展を開いた話」、「妻マサの不倫の話」、その他鑑定人が「C.虚言癖」のなかで例示している多くの「すぐばれる嘘、見え透いた嘘」とまったく同工異曲の作り話である。これらは拘禁以前から存在した「異状人格である欺瞞癖と空想性虚言症」(鑑定人の診断)そのものであるから、広い意味においても、狭い意味においても「拘禁反応に属せしめることが出来」ないのは理の当然である。
  これに反してさきに詳しく論述した被暗示性の亢進した状態(この状態の頂点で平沢は帝銀事件の犯人と思い込む)は拘禁状況においてはじめて惹起された、拘禁と因果的に連関する異状な精神状態であり、紛れもない拘禁反応である。山田弁護人の手記、平沢の鑑定人に対する陳述(「山田氏と高橋氏が一緒に來た時には"私は犯人だ"と威張ったそうですが、憶えはありません、云々」)から、前述のように、部分的記憶欠損を伴う一過性、あるいは挿話性意識障害(夢うつつの状態)の存在が推定されるから、拘禁反応、なかんずく拘禁精神病と診断するのが妥当である。
  平沢は警視庁に勾留され、取り調べを受けている間に3回自殺を企ている。第1回は勾留3日目の8月25日午前5時頃、雑居房で硝子ペンの破片で左橈骨動脈を切った。部屋の壁に「祈清栄の父母 首実見の結果犯人にあらずとわかりけむ」と自己の潔白を訴える血書があった(警視庁平沢貞通動静報告書による)。第2回は9月22日、検事に義弟風間竜に会わせてもらえれば何でも申し上げるといい、風間を呼んでもらい会話中突然「私は竜ちゃん、帝銀のことに関しては、天地神明に誓って犯人じゃありません」と言うや否や、ふらふらと立ち上がり、ドアの下から約1尺5寸のドアのヘリに倒れ掛かり、頭を打ちつけた(平沢貞通検事聴取書による)。第3回は帝銀事件の犯人であることを認め、検事の誘導で犯行の供述をはじめた9月23日から3日目の9月25日午前1時頃のことで、痔の治療に処方された坐薬を5個飲んだ。平沢は同日午前の取り調べで検事に「昨夜1時一寸過ぎ痔の薬を5個飲みました。この間、痔を診て頂いた時に飲めば死ねるかもしれぬと聞いておりましたので、紙に包んでとっておき飲んだのです。5個にしたのですが駄目でした。腹がしびれる薬ですね。まだ手足は多少しびれています。……今日は何でもそうでございますと肯定する心算で出てまいりました。一日も早く埒が明けてご処刑を受けたいのです」(平沢貞通検事聴取書による)。
  この平沢の自殺企図について鑑定人は「病的虚言者が屡々自殺を企て、しかも未遂に終ることはよく知られたことで、特にこのような事態においては珍らしいことではない」として、自殺は平沢が病的虚言者であるからだと説明しているが、病的虚言者が何故「このような事態」において自殺を企てるのか、この説明ではまったく理解できない。平沢が「病的虚言者」であるとしても、その自殺は、自殺が行われた当時の状況と、彼の陳述する動機 (例えば第1回の自殺の動機についての鑑定人に対する陳述「たしか25日の日でした。ガラスペンで動脈を切ったのですが、あの時の心境は絶對でした。頭が混亂していたことも事實ですが、動機の第一は、やはり侮蔑を感じたことです。面通しで真犯人でないことは明白になったとは信じていましたが、それでもあれだけのことをされたのは何といっても侮蔑に感じました」)から、拘禁と結びついた異状行動と判断するのが至当である。
  以上に詳論したように、平沢は「帝銀事件自白」当時(昭和23年9月、10月)拘禁精神病の状態にあったものであり、「被告人の異常性格である欺瞞癖と空想性虚言症とが一層誇張された形で示されていた以外には、平素の状態と大差のない精神状態であった」とする内村・吉益鑑定の結論は到底支持できない。

5. 精神鑑定以後の平沢の精神状態

  平沢は精神鑑定以後、昭和30年、最高裁で死刑が確定し、爾来、死刑囚として獄中にあること32年、95歳で亡くなったが、これは、彼が内村、白木らの発見した狂犬病予防接種の副作用である脱髄性脳脊髄炎という脳神経疾患の罹患者としては、おそらく希有の「症例」であることは間違いない。彼の精神鑑定以後の長期にわたる精神状態を明らかにすることは脱髄性脳脊髄炎の長期予後に新知見を加えるだけでなく、脱髄性脳脊髄炎のような器質的脳神経疾患に罹患した場合の責任能力に関する司法精神医学の論争に一石を投ずることになるだろう。それ故、精神鑑定以後の精神状態を調べることはきわめて重要である。
  平沢は30有余年の獄中生活で、自分の心境を綴った驚く程多量の上申書、日記、手記、書簡、それに多数の詩、短歌、俳句、漢詩の他、1300点にのぼる絵画(水彩画、墨絵、テンペラ画)を遺しており、それらは彼の支援者によって収集され、その一部は出版されている。私はこれらの作品、および獄中の平沢に面接した人びとの印象記に基づいて、精神鑑定以後の平沢の精神状態を推定することにした。
先ず彼が遺した手記、書簡類を参照したが、そのごく一部を年代順に森川哲郎13)14)、縄野純三15) の著書から引用する。

昭和32年(1957年)4月22日の手記「山田弁護士御来訪面談す」
  山田君(山田義夫弁護人のこと)申さる。「帝大の内村祐之幕下の平木(白木博次の聞き違いー秋元)という教授が「頭脳空洞」を研究して先月21日(昭和32年)だったかの朝日新聞に、大きくトップ記事になったがね。その研究というのは、狂犬病の予防注射をした者は1パーセント、即ち、百人に一人は注射の弊害反応のため狂人の状態になり、死ぬるもあり、助かるもある。但し助かっても、善悪の判断がつかない位の、一種の気ちがい的存在になって生き延びるというだけになってしまうのだそうだ。その結果として犯罪をおかしても刑を科するに値しない人格となってしまうのだそうだ。君の場合も、刑を科するに値しない頭脳かどうか試験すべきだと書いているんだ。それに正木ひろし弁護士も賛意を表しているんだ。で、僕は君の弁護人としての立場から、一応君の意向を聞いて、君の意見次第で対策を立て、対処したいと思って今日来たわけなのですがね」と言われました。私は言下に間髪をいれずに申しました。「いやです。断然お断りします」と先ず結論を申しました。「私は犯人ではないのですよ」と続いて申しました。そして語を継ぎました。「私は犯しもしないものを善悪の判断をし得ないような頭脳だから犯したのだとして、犯していても刑を科する資格のない無罪釈放だとするなどは平沢を侮辱するものです。私の頭脳は、頭脳診断学の松野恵蔵先生によってちゃんと正確に御診断ずみのことは、山田さんあなたもご承知の筈です。それにこの度の最後の最高裁の方々は真心のあるかたがたと信じ、信頼しているんですよ。殊に、4月12日提出の上告趣意書補充ではキメ手の絶対をもって立派に堂々と非犯人の事実を立証しているのですよ。私は最高裁は正しいと信じますから、その最高裁の名誉によっても平沢の真実を正しくお認め下さることと信じておりますから、何を好んで予防注射の弊害反応による狂人的人間にされてまで生命を助かろうなどと思う侮辱を忍びましょうか。そんな侮辱によって一命を永らえて何になりますか。平沢はそんな卑怯なことのできる人間じゃありませぬ。私の真性はそんなことを承諾することが第一自分で自分を侮辱することで堪えられぬ嫌悪です。そんな侮辱を享けるくらいなら自分の清真を保証するために自分の命を絶ってでも自分の正真を侮辱から守り通しますよ」と答えたことでした。私の談話中山田さんの嬉しそうな大きな肯き!!その輝かしいお顔!!「やっぱり僕の思った通りだった!!」と一語を漏らされて行かれました。房に帰った平沢は仏壇の前に長い間合掌の端座でした。謹白

  この手記は最高裁に上告趣意書を提出した頃に書かれたものだが、平沢は狂犬病予防ワクチン接種後脱髄性脳脊髄炎の罹患者であるから、完全責任能力を認めた内村・吉松鑑定は問題だとした白木博次の意見に対する平沢らしい反論としてまことに意味深長である。そもそも自分は無実なのだから、「刑を科するに値しない頭脳かどうか試験する」なんてとんでもない話だとして、「そんな侮辱によって一命を永らえて何になりますか。平沢はそんな卑怯なことのできる人間じゃありませぬ」と山田弁護人に啖呵を切っているのである。前述のように、当時白木の研究を拠り所として平沢の再鑑定を求める朝日新聞記者矢田喜美雄らの運動があったが、無実の身の平沢にしてみれば、犯行を前提とするこのような動きを侮辱と感じたのであろう。この手記には、平沢は帝銀事件の犯人だけれども、責任能力がないのだから死刑は不当だとする当時の大方の専門家、支援者の見方に対する憤懣がほとばしり出ている。そして無実をかちとるために闘ってくれる山田弁護人への感謝の気持ちがよく現れている。

昭和33年(1958年)10月8日の手記 「在獄三千七百日を迎えるの記」
  罹災3700日を迎えました。23年10月9日は警視庁47日の拘留を終え鈴木警部補が右隣りに、中央に小生、左隣に刑事、直前に2人の刑事と人間のがんじ搦めをして、追随のもう一台の自動車には居木井ら5人の刑事が護衛して平沢を小管に送り込んだ23年10月8日の翌日で、これも満10周年でございました。……家族が24年小管に面会に来て、中野の自宅に人だかりがひどく、ここが帝銀で16人も人を殺した平沢の家だと罵るんですもの、あんまりです、と泣き伏した妻子でした。妻子はそのため、捨て値で中野の家を売り、豪徳寺に移転しましたが、妻の実家の名の表札にもかかわらず、ここでもやはり、平沢の家族と嘲罵され、却って旧市内のほうがいいかもしれないとて四ッ谷見附に住みましたがここでも覗かれ、遂に西巣鴨に移り、ここでも嘲罵され、今度は方向を変えて神奈川県境まで大移動してやっと嘲罵から逃れました。……三女はこんな恐ろしい国にはいられないと言って国籍を離脱したのでありました。その小菅入りの10月8日の満10周年でもあったわけでございます。ただ小生としては違法殺人の許されている国の国民の憂苦を完全に絶滅するために身命を生け贄として奉仕するだけでございます。先ずは小菅入り満10周年を追記いたしましてお礼と感謝を刻銘奉ります。

  これは小菅に収監されて満10年に彼の支援者縄野純三に送った手記である。警視庁から小管に護送されたときの物々しい様子、その当時の彼の家族の苦難が淡々と記されているが、自分の冤罪については、「違法殺人」だといい、こんなことが許されているのは「国民の憂苦」であり、こんな間違ったことを「完全に絶滅するために身命を生け贄として奉仕する」と激しい言葉で決意を語っている。

昭和34年(1958年)3月12日の書簡
縄野純三先生
  週刊誌続々と頂戴いたしまして有り難く拝読させて頂いております。弁護士様から詳しくお聞き取り頂けたと存じますが、この度の上告棄却の不正実にただただ呆れたの一語で尽きます。……私は自信がありました。自己の真実に比例しての自信でした。正しさに頼りすぎた愚かさ、その愚かさをわからなかった愚かさ、その愚かさが今やっとわかった愚かさ(在獄年の三愚)。正しさが正しくとおり得ない社会、これで憲法があるのですか。それで私は山田弁護士殿に3月9日、遺言の追加項目として、小生急死するようなことがありましたら、裁判官と高木検事、居木井刑事を殺人罪で告発して頂きたくお願いいたしました。なお、葬儀の時は高木検事、居木井刑事の住宅の前を通る得ることを付け加えようと思いましたが、止めました。お笑い下さいませ。私事で恐れ入りますがお骨折り賜っております拙著ご刊行頂けますとき、拙作を口絵、挿し絵にお用いくださらば記録ともなりうれしく存じます。……裁判提出書類ご整理いただき結びとしてお使いいただけましたら、小生の真意全世界にお伝えいただけますことと存じ、感謝この事と存じます。
先ずは御礼旁お願いまで 敬白 

  この書簡で平沢は、死刑執行に備えて書いた遺書に、裁判官や検事を殺人罪で告発することを「追加事項」として加えるよう山田弁護人に依頼したと記しているが、最高裁に提出した上告が棄却されたことに対する怒り、失望がよほど大きかったのだろう。この書簡の送り先である縄野は後述のように平沢の支援者で、彼のもとに送られた平沢の書簡、それも「便箋にぎっしり、余白のないまでに書き綴ったもので、原稿用紙に書きなおしたら数百枚、いや恐らく千枚にものぼるであろう膨大なもの」を編集して、平沢貞通著「帝銀死刑囚獄中記」(昭和34年5月))と題して出版した。平沢が拙著といっているいるのはこの本のことであり、この本の編集に自分が描いた画を口絵、挿し絵に用いることや、裁判関係の資料を載せることを縄野に依頼している。「小生の真意全世界にお伝えいただけますことと存じます」とあるように、平沢はせめてこの本によって、自分の冤罪がひろく世に知られることを期待したのだろう。
昭和37年(1962年)7月、かねてから平沢の相談相手になっていたジァーナリスト森川哲郎の首唱で「平沢貞通氏を救う会」が結成された。死刑執行の危機が切迫したからである。この予想の通り、平沢は同年11月24日仙台拘置所に移監となる。次は仙台拘置所移監を知らせる森川哲郎宛ての書簡である。

昭和37年(1962年)11月29日書簡
  24日、朝食をはじめ、コーヒーを一口飲んだとき、扉が開いて医長が入って来られ、ちょっと管理部長が用があるそうだから来てくれ、といわれ、同道、講堂に連れ込まれました。管理部長は、本日宮城刑務所に行ってもらうから、着物を着替えて、といわれ、私は丹前をぬいで長襦袢と袴をはき、羽織を着て、午前八時二十五分、オースチンに乗りました。右に後藤保安課長、左に大井医療課長が着席し、運転手、助手の5人で、毛布を暖かにして、第四号線国道を一路北行、宇都宮、小山を通って白石で昼となりました。保安課長は、駅弁を買うから駅へまわってくれ、といい、駅で釜飯を五個、牛乳を五本買い、国道沿い青地で昼食をして再走、午後四時四十五分、刑務所着でした。ところが、安坐すると、9時間50分の疲労は嘔吐となって現れ、夕食が駄目、翌日曜日も全嘔吐、月曜日は断食して嘔吐を避け、いささか三日の断食は疲れました。月曜日に、大野伴睦閣下に移管されたことと今後の対策お願いの打電をし、火曜の27日に衆議院の法務委員会の赤松勇、林博、上村千一郎の三先生に打電しました。巣鴨在監中いまだ妄念が去らず、死刑の侮辱を感じ、いかにしてそれを払わんかと、一時あせり気味でございました。お恥ずかしいことでございます。で、仙台送りは死刑執行の第一歩と感じ、一、執行命令聞きし刹那、舌をかみ切って、死をもって侮辱を拒絶せむかなと朗詠しましたが、後、読経中に霊感あり、二、舌噛むなとみ仏、霊教を賜う、殺されよ、民禍除く汝の命ぞ、と霊教感謝仕り、三、執行後、真犯人が確魂(存命)ならば、民の公憤は倍増されむと、自らの、み仏ご差遣の仏弟子の使命を感謝合掌し、四、殺されて正者死刑の国民禍滅除のいけにえたらむと自鞭しました。五、死刑とは刑罰なるぞ、真正なものはたとえ殺されても受刑にあらず、ただ虐殺されるのみ。が、大乗禅の大喝は、生臭め、我詩歌未だ生死妄執の気あるを叱り付け、と自ら喝破仕りました。お笑いください。
森川哲郎先生

  この書簡の後半は差し迫った死刑執行を前にした平沢の悔しさ、怒りとあきらめの葛藤が仏教徒である彼独特の表現で書かれている。文章が乱れているのは激しい苦悩のゆえであろう。当時の平沢の句に 「今朝も待つ死刑執行の云い渡し」というのがあるが、この死刑執行の危機は森川らの「平沢貞通氏を救う会」が議会、関係方面を動かし、回避することができた。それ以来この会が中心となって平沢の再審請求、さらには特別恩赦にむけての活動が強力に続けられたが、中々功を奏しないまま時が過ぎ、この間、昭和49年には心臓疾患が悪化、救う会など関係者の努力で死刑囚としては異例の刑務所外の病院での治療が認められ、昭和49年、東北大学病院に移されたが回復、獄中で八十八の米寿を迎えた。

昭和54年(1979年)の年賀状
謹賀新年 1979年元旦
  よき年をお迎え、ご健康ご回復をお祈り申し上げます。禁固31年、米寿を迎え、この長期の「自然死刑」拘束中のご厚恩深く感銘厚く感謝奉ります。いかなる権力も正を邪とすることは出来ない事を米寿の一生命を捧げて立証し、指紋の違う正者の証拠を理由とする再審請求が、国会の諸先生のご努力で実を結び、無罪を実現させて頂き米寿記念といたしたく、祈念いたしております。敬具
仙台市古城2-2-1
平沢貞通
森川哲郎先生

  平沢は自分の長期拘置を「自然死刑」と呼んでいるが、「「獄中の病気や老衰、あるいは劣悪な環境や待遇のなかで囚人を衰えさせて、死に導くことを指しているのであろう」という森川)の解説通りの運命を、この後、平沢はたどることになる。しかし、それでもなお、米寿の年こそ、再審請求を実現させて獄中の新年を最後にしようとの意気込みを失っていないことをこの書簡は示している。

昭和54年(1979年)2月18日の書簡
  死は生なり。獄中米寿感無量娑婆にあらばと万感たぎりおります。しかし、つくづく想いますことは人間に歳がありますが、正義に老いなしという事であります。……人は殺せてもその人間の持つ真実の生命は殺せない事であります。……キリストも聖人も聖僧も、皆死んでいっても正しさの心は永遠に生きているではありませんか。拙老米寿を本日迎えましたが何が八十八年だと反発は大なのです。拙老三度自殺決行した経験者でして、死に惧れ、恐怖は零なのです。ただ、如何に生のために死を役立てるかの一念に徹しております。 謹言 
昭和54年2月18日
森川哲郎先生

  米寿の当日、面会に行った森川の妻に託した所感である。この書簡を書いた頃の平沢について、森川は)「精神力の他に、いまの彼の生命を支えるものはない。生死をこえて、人権の人柱になろうとする誓いの裏に、一万一千日の獄中無残の傷口の痛みを見る者は、私一人ではないであろう」と書いているが、「獄中米寿娑婆にあらばと万感たぎりおります」という短い言葉に彼の無念の思いが集約されているように思われる。米寿から8年、この間、昭和57年(1982年)には彼の支援者「救う会」の会長衆議院議員赤松勇、続いて事務局長の森川哲郎が亡くなるという平沢にとって大きな精神的打撃となる出来事があったが、それにもよく堪えて身体的老衰か進み、宮城刑務所から八王子医療刑務所に移され、昭和62年(1987年)5月10日朝、95年の生涯を終わるまで、司法の不正と闘う旺盛な精神力、気力は衰えることがなかった。
  それは不正に対する闘争においてのみでなく、これから述べる平沢の本領である画家としての姿勢にも見出すことができる。彼はまことに獄窓をアトリエに変えた画家でもあった。獄窓の画家平沢光彩について、針生一郎は「平沢貞通の画業の道程をふりかえる」6)で次のように述べている。

  平沢貞通の画業は大正期にもっともゆたかな可能性をはらみ、それはとりわけ北海道の広大な空間ときびしい自然のなかで生きるアイヌなどの民衆生活をみつめるリアリズムと、水彩画からテンペラ画へと進んだ材質と技法の探求によってもたらされた。昭和に入ると彼の行動半径は大きく広がり、国内各地ばかりか中国、旧満州にも及んで、主として風景画に光の表現を中心とした新しい方向を切り開いたが、おそらくコルサコフ症候群のせいもあって、一方では観念的な様式化と通俗的な説教臭もまぬがれなかった。後者の要素が平沢を全盛期の戦争画にも近づけたのだが、彼は報道班員として戦地に動員されるほど、描写力の達者さがみとめられた人気画家でもなかった。敗戦後に平沢はこういう反省を込めて、東京中野の焼け跡や伊豆風景、さらには北海道の自然といった眼前のモチーフにとりくみながら、画家としての自己の原点に立ち返ろうとしたのだろう。だが1946 (昭和21) 年の[地平清明]や47(昭和22)年の「軽川」などを見ると、多少の差異はあっても、1920年のヴァリエーションであることがわかる。生活難の時代にもこの図柄なら売れるということもあっただろうが、精神の原点への遡行が旧作の焼き直しと交錯するところに、敗戦後数年の平沢の実状があったと思われる。帝銀事件の犯人にしたてられ、小樽での逮捕、東京小菅での拘留、拷問と自白強制という形で、警察と司法の権力がいきなり有無をいわさず平沢の生活に介入してきたのは、この時期である。やがて数年後に、彼の獄中作が始まるが、平沢の制作道程からみれば、逮捕前との断絶はおおいがたい。眼前に描くべき何の手がかりもないのに、そのとざされた状況で、彼は記憶と想像だけに頼って、ピアノの鍵盤を手さぐりにあちこち叩くように、自己のアイデンティティにかかわる映像を探り出す。そこに現在の心境や感慨ももりこむから、画面は象徴となって過剰な意味をおびるのだ。それにしても「獄窓に咲きたる花の浄さかな」という句のある1953(昭和28)年の色紙や、「拘置所夜景」(1960)には拘置所生活中のわずかな嘱目のモチーフが描きとめられている。「伝教大師伏し拝めば尊ふと比叡の月」という句のある比叡山夜景「浄」(1957)や、「札幌の雪景色」(1959)、「黄色い日の出」、「雪林の朝」(ともに1964)などの雪景は彼の追憶に灼きついた原風景なのだろう。「18歳の自画像想出再描」、「まさ18歳の春宵」(ともに1960)は、両者の顔があまりにも似すぎるが自己の青春と妻との出会いの記念碑にちがいない。「水害地」、「白光青島市街」(ともに1969)は、いずれも旅先での忘れがたい映像だろう。「カチューシャ可愛や」(1969)は、師島村抱月との恋に悶えながらカチューシャを演じて大正半ばに一世を風靡した、松井須磨子の追憶であり、「京舞子薫風」(1964)、「登竜門」(1969)は一時彼の恋人だったという舞子の追憶かもしれない。「法隆寺壁画憶出描」(1978)は、焼失した画像をかってみた記憶の再現で、「まことなる至誠磨きて弥清き米寿迎える今日ぞ嬉しき」とか「正義貫徹」とかの文字のみえる「米寿自画像」二点(1979)は、仏教に帰依しようとしてなお解脱しきれない老年の孤独と透徹を感じさせる。
  これらの獄中作は、芸術的感動とはやや異質だが、必死で、切実ないとなみなので、ヒューマン・ドキュメントとしてみるひとの胸を打たずにはおかないだろう。獄中年30余こういういとなみをつづけたて人物を、ついにそのまま死なせた根源が権力の負わせた冤罪であったとすれば、これは天人ともに許すことができない。

  針生はこの評論で平沢の画風が一流のテンペラ画家として名を馳せた青年期と比べてコルサコフ症状群を病んだ後変化して、「観念的な様式化と通俗的な説教臭」をおびるようになったと指摘しているが、脱髄性脳脊髄炎のような脳疾患が造型のスタイルにも影響することを示す重要な指摘である。平沢の獄中の絵画がこのような欠点を持ちながら、針生の批評のように「ヒューマン・ドキュメントとしてみるひとの胸を打たずにはおかない」のは、縄野純三や森川哲郎が平沢の手記、日記、書簡に見出したものとまったく同じように、平沢の書いたり、描いたりしたものが極限状況におかれた人間の、真実を求める叫びであるからだろう。
  彼の30年余におよぶ獄中生活の大半は狭い独房のなかでの制作に費やされ、描かれた絵画(油絵、水彩画、墨絵、テンペラ画)は千三百点にのぼっている。その一部は「平沢貞通祈りの画集」(1985)7)、「平沢貞通画集」(1992)6)に収められている。彼の最初の個展は昭和49年7月、彼が82才のとき、東京渋谷の杜樹(とき)画廊で開かれ、彼の死後も毎年のように開かれており、訪れるものに感動を与えている。
  獄中の平沢の精神状態を知る第三の手がかりは、彼に直接面接した人たちの印象である。

  「帝銀死刑囚平沢貞通獄中記」(昭和34年)15)の編者縄野純三は次のように書いている。
  「私が纐纈澄順(きくとじちょうじゅん)氏を天台宗延命寺に訪ねたときのことである。たしか昭和32年6月であった。用談を終えて帰りかけようとすると「きみ、昨日小菅で平沢貞通とあっていろいろ話をしてきた。ちょっと面白かったよ。その時彼のテンペラ絵を貰って来たから見ていき給え」という。纐纈氏が小菅拘置所の教誨師で仏教を通じて長いこと死刑囚のよき導者であり、帝銀事件の平沢貞通や銀座母娘殺しの別府欣男などの担当者であることを知っていた私は、うかしかけた腰をまた坐り直した。やがて奥から取り出してきた一枚の絵。「平沢は帝展無鑑査クラスの画家なんだ。どうだね。よく出来ているだろう」。それは画仙紙にかいた普賢菩薩の絵である。私はあかず画面に眺めいった。これが明日をも知れぬ生命を前にした死刑囚の描いた絵だろうか。微笑みを湛えた瞳、三日月形の眉、薄化粧をほどこした豊頬、頭上には五仏をかたどった宝冠をいただき、右手には金剛杵、左手に金剛鈴を捧持した神々しいまでの女人像である。別名を延命菩薩ともいわれる。大慈大悲、行願成就、衆生済度の権化のような、その画像に心を打たれた。昨日ね、と纐纈氏は私の感じ入った姿にいかにも我が意を得たかのように、微笑しながらなお続けた。平沢に逢うと、いつになくとても気持ちがすがすがしいから久し振りで小唄か義太夫でも歌いたくなった。先生、ここでうなってもいいかというのだ。僕も場所が場所だけにちょっと返事に困った。僕ら教誨師は一般面会人と違って金網越しに逢うのじゃない。係官が囚人との会話を筆記するようなこともしない。特別な八畳じきの教誨室で死刑囚とただ2人きりで向かい合って自由に話が出来るのだ。 看守は部屋の外で待っているだけだ。口ずさむ程度ならよかろうと思ったので、まあ大きな声さえ出さなければいいだろうと許してやったんだ。すると彼は小さな声でなんと、三つちがいの兄さんというて暮らしているうちに、情けなやこなさんと…とあの三勝半七酒屋の段のさわりを語り出したんだ。なかなかうまいもんだ。小唄も上手だよ。うまいというよりは、渋く手慣れているというのかな。もっとも彼は若い頃、さんざ芸者遊びをやったというからね。
  この話でさっき、纐纈氏が面白かったという理由が肯けた。それと同時に私は驚きをさらに新たにしたのである。死を目前にして、どうしてこんな澄んだ心境になれるものか。これがあの帝銀で一瞬にして16人を斃し、12人の生命を毒薬で奪った世紀の極悪犯人とはどうしても考えられない。何かある。謎があると私は直感した。早速、纐纈氏に言った。「平沢と交際したいから紹介してください」。「よかろう。彼も喜ぶだろう。毎週逢うことになっているから、その時平沢に話して置こう」と纐纈氏は喜んで引き受けてくれた。私と死刑囚平沢貞通との交際、主として文通はそれから始まったのである。以来3ヵ年、彼から約60通の書信が私の手元に届いている。便箋にぎっしり、余白のないまでに書き綴ったもので、原稿用紙に書きなおしたら数百枚、いや恐らく千枚にものぼるであろう膨大なものである」。

  これはジァーナリスト縄野純三による教誨師天台宗延命寺住職纐纈澄順の平沢の人物評である。纐纈は小菅拘置所の教誨師であるから、当時平沢と最もしばしば面接し、話をする機会があった人である。この人の話から縄野は平沢が帝銀事件の犯人とはまったく異質の人物であることを直感したというのである。

  昭和39年に制作された日活映画「帝銀事件・死刑囚」の監督熊井啓6)は次のように述ている。
「私が平沢氏に会ったのは昭和38年11月3日であった。帝銀事件・死刑囚を第1回監督作品として撮ることになり、平沢氏の人柄や風貌を監督として確かめておく必要に迫られ、作家の森川哲郎氏とともに仙台の宮城刑務所を訪れたのであった。平沢氏とは接見所の金網越しに会い、事件以外のことは何でも自由に話し合えた。その時受けた印象は、想像していたより小柄で、痩せ細って蒼白く、髪もだいぶ白っぽく、小心で神経質そうでガラス細工のように脆い感じであった。しゃべり方や歩き方も弱々しく、大犯罪を白昼堂々とやってのけられるような大胆で冷酷な男とは思えなかった。当時氏はすでに70歳を越えていた。私は33歳であった。氏は若くて自由な私を羨ましがっている風であった。だが愚痴めいたことは言わず、ただ絵の具が不自由で思う色の絵が描けないことだけを嘆いていた。体は衰弱し声は細かった。この様子ではあと数年の寿命ではないかと案じられるほどだった。しかし、平沢氏はそれから23年以上生き延びた。平沢氏がこのように生き長らえることができたのは奇跡としか言いよううがない。自由を奪われた怒りと怨念が、氏の精神を支えたのであろう。そのことを遺書に厳しい表現で記している。
  帝銀事件・死刑囚は、読売新聞社会部の活動を中心に、事件発生から最高裁判決までをドキュメンタリー風に描いたものだ。竹内理一氏をはじめとする記者、警視庁幹部、弁護士ほか大勢から取材し、検事聴取書、裁判記録を読みシナリオを作成していくうちに、帝銀事件は平沢氏では不可能な犯罪であることが判った。理由は幾つもある。犯行現場だけに限ると、犯行には高度の専門性と経験が必要であり、凶器も平沢氏が自白した速効性の青酸加里ではなく、飲んでから3、4分経ってから効く毒薬で、旧陸軍の第九技術研究所が発明した青酸ニトリールであると言われている。研究所員が昭和16年5月に南京で、さらに18年10月には上海で生体実験をしている」。

  平沢との面会で「帝銀事件のような大犯罪を白昼堂々とやってのけられるような大胆で冷酷な男とは思えなかった」ことが、熊井の平沢を白とする映画を製作する熊井の自信につながったであろうことは推察に難くない。平沢の態度、人柄がおかしければ映画監督熊井を動かすことはできなかっただろう。この映画は封切られると国内ばかりでなく海外でも高い評価を得、帝銀事件の真相を国の内外に広く知らせるのに貢献した。熊井はこの作品で新人監督賞を受賞している。

  また、「救う会」事務局長森川哲郎の遺児で、少年の頃から父に伴われて平沢を獄中に屡々訪ねており、昭和56年1月29日、平沢の養子となり、「救う会」の事務局長として平沢の没後も活動している平沢武彦7)は晩年の平沢について「93歳の高齢を迎えた今も依然,絵にかける気力や画力、さらには93歳の執念にも似た、釈放後いま一度絵筆をの思いは、いっこうに衰えず、それを支えに生きているようである」7)、「平沢の表情は澄んで面会者を感動させ、態度は端然としている」7)と書いている。私は彼の話を直接聞いたが、晩年の平沢は身体的な衰えは別として、精神面では少なくとも知的退行、情意面の異状を呈することはなかったといってよい状態と判断された。

  以上にそのごく一部分を挙げた獄中の手記、書簡の類を読んで、私たちが知ることができるのは、第一に、平沢が終始一貫して、おのれの冤罪を主張してやまなかったことである。用いられた言葉、文章には誇張、迂遠冗長、時には意味不明のところがあるか、彼が無実の根拠とする、自白の経緯や帝銀事件当日のアリバイの訴えは首尾一貫しており、空想性虚言症の現われとして一蹴するわけにはいかない。第二に彼の手記や詩歌には妻を恋い、子を想う情感にあふれたものが多く、感情面の荒廃がないことも注目される。晩年まで制作を続けて倦むことのなかった彼の絵画も、その技法に病前の最盛期に比べて低下があったとしても、観る者を感動させるだけの力を備えている。獄中の平沢に面接した人びとの印象もまた、彼の精神の強靭なことを示すものといってよい。
  以上に詳論したように、獄中の平沢の精神状態には、「犯行」および精神鑑定施行当時の精神状態として鑑定書に記載されている「欺瞞癖」や「空想性虚言症」はもとより、拘禁反応、その他の精神異状を思わせる症状はまったく見いだされない。私たちがそこに見出すのは絞首台の恐怖に耐える極限状態のなかで、終始一貫して冤罪と名誉の回復のために闘い続ける一人の死刑囚の強靭な精神である。
  平沢が狂犬病予防注射を原因とする脱髄性脳脊髄炎の罹患者であり、コルサコフ症状群の回復過程の症状である「欺瞞癖」や「空想性虚言症」が獄中でみられなくなったのは何故なのだろうか。刑務所という社会から隔離された環境での孤立した生活では「欺瞞癖」や「空想性虚言症」の出番がないからだ、という解釈も成り立つかもしれない。しかし、「空想性虚言症Pseudologia phantastica」の最初の提唱者であるデルブリュックAnton Delbrueck(1891)3)以来、精神病質の一類型としての「空想性虚言症」のこれまでの症例報告2)は欺瞞や虚言がいかなる環境においても、たとえば刑務所の中でも、惹起することを示している。平沢の「空想性虚言症」がこの原則に合致しないのは、それが鑑定人が結論したような生まれつきの異常性格、すなわち精神病質としての「空想性虚言症」ではなく、コルサコフ症状群の遺残症状であり、回復の可能性をもつ症状であるからである。
  獄中の平沢を、それ以前の、逸脱行動で周囲を悩ました「病的虚言者」から、真摯な、正義の闘士に変身させたのは、コルサコフ症状群の軽快ということもあろうが、もっと積極的な契機は、冤罪をはらしたいとの一念であると私は考える。平沢の精神鑑定以後の獄中の精神状態は、精神医学的には、脱髄性脳脊髄炎なる脳器質疾患を有するけれども、その臨床症状は十分回復したものと認められ、従って司法精神医学的には「精神の障害により行為の是非を弁別し、またはその弁別に従って行動する能力」(昭和49年改正刑法草案による刑事責任能力の定義)には障害がないと判断される。私たちは、平沢の無実の訴えはこのような正常といってよい精神状態のもとで行われたものであることを銘記すべきである。

6.平沢の精神障害の精神医学的診断について

  前項で詳論した鑑定以後の平沢の精神状態は平沢が逮捕前に示した「欺瞞癖」と「空想性虚言症」を精神病質と同一視した内村・吉益鑑定に疑義を提起するもののよように思われる。平沢の「欺瞞癖」、「空想性虚言症」なるものを精神病質と同質と診断したことが内村・吉益鑑定の誤った結論を導く源泉であると私は考えるので、ここで改めて平沢の精神障害の精神医学的診断について考察を加えることにする。
  鑑定人は鑑定当時の平沢の精神状態を「狂犬病予防注射によって起った脳疾患の影響による異常性格の状態で、その特長は顕揚性ならびに発揚性精神病質に相当するもので、その最も前景に立つ現象は欺瞞虚言癖と空想性虚言症である」といい、また、「現在の性格異常は裁判医学的にみて、生来性の性格異常(精神病質と同義―秋元)に準じて判断されるべきものであり、しかも現在の異常程度は、免責または減責の対象とするほど高度のものではない」として、狂犬病予防接種による脱随脳脊髄炎の後遺症を生来性の性格異常、すなわち精神病質と同じと見なしている。
  しかし、「欺瞞癖」や「空想性虚言症」のような精神病質に似た状態が器質的脳疾患に関連して生じたとしても、それは精神病質とは異質の器質的脳疾患に基づく人格変化であることは精神医学の常識である。この意味で、平澤は生来性の性格異常者、すなわち精神病質者ではなく、狂犬病予防接種の副作用である脱随脳脊髄炎に罹患した、ワクチン禍の不幸な犠牲者なのである。鑑定人が平澤に完全責任能力を認めたのは平沢を「裁判医学的」に(精神医学的にではなくー秋元)生来性性格異常、精神病質と見なした必然の結果である。精神病質に完全責任能力を認めるのは司法精神医学の慣例だからである。平沢を精神病質ではなく、器質的脳疾患の罹患者であると正しく認識することによって、内村・吉益鑑定の矛盾、撞着した論理、誤った結論をただすことが出来るだけでなく、鑑定以後の正常な精神状態の由来を理解することができる。
鑑定書の既往暦には、平沢が大正14年、38歳のとき、18回の狂犬病予防注射を終了した数日後から、意識障害、コルサコフKorsakow症状群、上下肢の不全麻痺、視力障害などを主症状とする急性の精神症状、神経症状が現れ、これらの急性症状は約5か月でおおむね回復したが、その後、平沢の性格が著しく変化したことが詳細に記述されている。鑑定人の判断とは異なって、平沢の「性格異常」なるものが精神病質ではないことを示す所見として重要なので次に引用する。

  大正14年5月、被告が34歳の時狂犬病予防注射を受け、これに引きつゞいて重い神経系統の障碍を病んだということは、被告人自ら述べる通りであるが、その詳しい情況を被告人の妻マサ、母くに、妹淳子、義妹ソノ、叔母岩田たね、義弟杉山誠治、知人松野恵蔵、加藤伝三郎、石井鶴三等について問いたゞしたところを綜合すると次のようである。
  大正14年5月10日、妻マサが自宅の狂犬に噛まれ、そのため一家のものが12日から北里研究所へ通つて予防注射を受けることになった。貞道は18回の注射を終って間もなく、すなわち6月の始めに、身体がばらばらになるような感じがすると言った。その頃から足が疲れ、しびれると言うようになった。丁度この当時3晩続けて11時になると妻に向って、「ちよっと起きて下さい」と言い、敷布の端を丸めて「ハンケチを拝借したのを確にお返しします」、「大変お世話になり有難うございます」と言い、妻を識別し得ないように思われた。朝になって全くそのことを記憶せず、昼間は変ったことはなかった。しびれ感は特に夜間が強いようであった。3回慶応病院へ通って診察を受けたが、疲労で神経衰弱になったのだと言われたそうである。予防注射終了後1週間も経たないうちに、歩いて外出することが出来なくなり、疲れきって寝込んでしまったということである。丁度この頃次のような異常に気がついた。自分の代りに妻に使いに行ってくれと言ったので妻が仕度をしていると、何処へ行くのかと不思議そうに尋ねた。「あなたが頼んだのじやありませんか」と言うと、「そうだったね」と分った様な様子だが、またすぐに同じことを繰返すので変に思った。運動麻痺は漸次著しくなり、しかも身体の下部から上部の方に及び、1週間位後には上肢も殆んど動かず、寝返りも出来ず終には首も廻らなくなった。大小便の失禁もあった。言語は最後まで話せたが、視力は悪くなって後には一時全く見えなくなったことがある。上肢が動かなくなる頃に急に意識の溷濁が起ったらしく、周囲や家人を弁識せず、誰か相手がいるとわけの分らぬことを口走る。例えば自宅をホテルと思い、とうなすを食べさせたらこのコキールはまずいと言うので、これはコキールでないと言ってきかせても、そんな事はないコックを呼べと言う。また着物を持って来いとか、自動車を呼んで来いと言うたりする。しかし後ですぐ忘れて他のことをいう。一番多い話題は食事のことであった。或る日、父が北海道から見舞に来たので、お父さんですよと説明すると分った様に何の御馳走しようと言うが、すぐ父のことを忘れてしまう。大声で興奮するようなことはなく、独り放置すれば黙っていた。或いはうつらうつら眠っていたと言われる。熱があったかどうかは分らぬが、水枕をしていたから多少あったのではないかと思われる。この様な状態が約20日間続いた。発病の当初医学博士加藤伝三郎の往診を受けたが、同医師は平沢が大声で威張っていたので、これは神経衰弱ではない、精神病だから専門家に見せたがよかろうと話したと言っているが、妻マサの談では、加藤が「これは梅毒性の痴呆症だ」と言ったので、早速池袋の佐久間主治医に血液の検査を受けたところ梅毒ではないと言われ、病気が分らぬから落胆した。間もなく娘同士の友達関係で知合った指圧療法師松野恵蔵の治療を受けることになった。松野が来てから17日目頃に意識がついて、始めて妻マサやその他の家人を正しく認めるようになつた。病中父が見舞に来ていたことも知らない。何故自分が寝ているのかも分らず、狂犬の事件も予防注射に通ったをことも記憶していない(逆行性健忘)。また記銘の障碍が著明であった。石井鶴三が見舞に来ると、鮭の罐詰を食ったが酸っぱかったなどと事実無根のことを語った(作話症)。間もなく石井の世話で精神医学を専門とする森田正馬博士の往診を受けた。同博士はその場では病名を言わなかったが、石井が自宅できくとコルサコフ病という病気であるが、平沢は酒を飲まないから梅毒から来たのであろう。この病気は治るが長びくだろう。なお身体の方は内科医に診察して貰うようにと言ったとのことである(石井鶴三談)。それから20日程経つて、家族から依頼して森田博士の第2回の往診を受けた。家族はその時始めてコルサコフ症状ということを話され、治るかと尋ねたら「1年生からやり直しですね。」と言われたという(妻マサの談)。意識がついて来てから1週間位で手が動くようになつたが、足が立つようになつたのは9月か10月頃であった。まだ足の立たない頃の或る日、岩田たねが御嶽の行者をつれて来て祈祷をさせたところ、貞通は怒って水枕を噛み切って水だらけにした。独りで這って歩いて玄関から石の上に落ちて、上がれないでいたことが数回あった。また義妹ソノの話によると、或る日茶の間の縁の下の踏石のところに頭をつけて妙な顔していることがあったという。なおこの頃でも自宅をホテルと誤ったり、或は三越や白木屋へ行っているように思い違ったりすることがあった。岩田たねが見舞に来たとき、妻が「叔母さんがいらしたですよ。」と言うと「叔母さんには電車の中で会ったよ。」というような作話をしていた。杉山誠治が見舞に行くと、貞通は同人であることは解ったが。「山奥で仙人に逢った」というような突飛なことを話したという(作話症)。記銘力障碍は長い間顕著であって、瞬時にして自分の話したことを忘れてしまい、言われて気付くことがよくあった。しかし意識がはっきりしてから1ヵ月間位は、夜になると幻覚があって3人組が屋根の端を壊しているのが見えると言って恐怖したり、指に棘がさゝっている(事実何もさゝっていないのに)と言って血の出る程ほじくっていたということである(譫妄状態)。回復期に入っても怒りやすく抑制力がなかつた(過敏情動性衰弱状態)。殊に音響に対して過敏で、近所で子供の声が少しきこえても気にし、これを達也の声と誤認し達也を呼びつけてあやまらせた。北海道へ静養に行っているときも、母くにや淳子の話では、忘れっぽいところと怒り易く辛抱の足らないところが目立ったということである。松野や妻マサの談では、眼は長い間不自由で、2年間位色の弁別が充分出来なかったと言われ、全くもとのように制作が出来るようになるには、結局3年位かゝったという。

  鑑定人は「以上の事実から、この精神障碍は狂犬病予防注射に起因する脳の毀損に基づく外因性反応型であって、コルサコフ症状群を主徴候とするものであると判断される。狂犬病予防注射後にかような重篤な脳症状が表われることは、輓近にいたって初めて注意されるようになったことで、従って当時専門医といえども正しい診断をなし得なかったのは止むを得ないことと思われる。尚この重い脳障碍が、その後引き続いて現在に至る被告人の精神状態に如何なる影響を与えているかということは非常に重要な点であるから、このことは後段において詳述する筈であるが、被告人の生活歴を展望して気付くのは、この頃を期として、被告人の行動に変化が起ったのではないかと推測される節のあることである。次に述べる大言癖や虚言はその例である」と述べているが、狂犬病予防注射の副作用としてのコルサコフ症状群などの脳症状が狂犬病予防注射を原因として起こる脱髄性脳脊髄炎の症状であることが内村、白木らによって発見されたのはちょうど平沢の鑑定が行われている時期であったから、平沢の脳疾患以後の行動変化は脱髄性脳脊髄炎との関連において追及されてしかるべきであるのに、次の「脳疾患以後の行動の変化」の記述はこの点をまったく無視して精神病質との類似性に焦点かあてられ、ひたすら空想性虚言症の説明に終始している。

  多数の親戚および知人について慎重に問いたゞしたところによると、被告人がコルサコフ症に罹った頃からその性格にも変化を来したと判断すべき資料が多い。たとえば従前からあった誇張的の言動は、罹病後一層際立って顕著となって来た。関晴風の語るところによると、平沢の第1回出火後に移転した中丸の借家へ、日本水彩画会を代表して望月省三と2人で始めて病気見舞に行ったことがあるが、殊更病中を避け、罹病の翌年病気が治ってから行った積りであるのに、平沢は「この病気に罹ったものは日本に3名しかない。石川寅治さん(洋画壇の重鎮)と誰某だけである。自分は今後頭がよくなって立派な画が描ける」とうそぶいたので、2人は驚いて、「まだ狂っているなあ」いう印象を受け、急いで辞去したという。
  望月省三の談も大体同じようである。「この病気は天才病だ」と言い、また自分の頭に触って「どうだ頭の格好がよくなったろう。病後の画はすばらしい」と言って、近くにあった病後の第1回作品らしい墨絵を見せたが感心出来ないものであった。その時の目付きは気味の悪いものがあったという。
  その後知人に病気全快の挨拶状を出したが、その中には天下の奇病に罹ったという自分の病気を誇る意味の文句が書かれていた。また或るときは、真野紀太郎(明治以来の水彩画の重鎮で健在)を一度見て、「あなたは直き死ぬ」と失礼な言を発し、君呼ばわりをしかねない不遜な態度であった(関晴風談)。
  本件記録によると、弟貞敏は司法警察官の聴取に対し「兄はコルサコフ病を患うまではそうでもありませんでしたが、病気をしてから何でも誇大に話すようになりまして、今度絵が10万円に売れたとか、5万円にはなる筈と申しますから、また大法螺が始まったと思つて別に相手にもなりませんでした」と述べている。また貞敏は公判廷においても同様に、兄は病後は誇大妄想狂というように見えたところがあるといっている。妻マサの談では、病後数年間は特に不遜であり、家では恩師石井柏亭氏を柏亭君などと言っていたので、貞通の外出するたびに何か失敗がありはしないかと気に掛り、一時は神経衰弱になったという。
  叔母岩田たねも貞通の法螺がまた始まつたというようなことがあつたと述べ、妹淳子は兄の自慢について、「兄さんのことは割引しなければならぬ」と言い、弟貞健の妻郁子も、夫から「兄は嘘が多いから話を半分にきけ」と言われていた。
 鎌田りよの話では、本人の16歳の時始めて平沢について画を習う頃には、平沢が大言したような記憶はないが、昭和になって再び平沢に接するようになると、既に戦前から、普通の画家としては大きいことを言いすぎると思うようになった。自分の絵はがきが一番よく売れたとか、強盗の説法の話などを得意になって語り、また簡単な嘘をいろいろ言う。例えば50円のチップを200円やったとか、500円の色紙が1,000円に売れたとか、たゞで貰った硯を1,000円で手に入れたなどと言う。嘘をいっても本人は平気でそのつもりになっている。戦争が始まってから大言が一層激しくなり、誇大妄想になったのかと思った。たとえば軍の嘱託になって飛行機の迷彩を施し、大変に偉い待遇を受けていると威張っていたことがある。また或るときなどは、農場を開いて牛を10頭飼って、ピート糖を裁培してやると語り、あたかもそれが実現したかの如く反身になって話したということである。昭和になってから貞通と親交のある元小学校長朝枝文祐も、平沢は時々冗談のような法螺を吹くと言い、その息朝枝保雄の話では、昭和22年春平沢は東京でラジオのセットを大量に作って販売するので、何十万円何百万円儲かると言ったという。また昭和以来平沢一家と親しく交際していた渡辺貞代も、平沢は屡々見え透いた法螺を吹く癖があるという。例えば妻マサに向い、殊更に自分にきかせるように画がいくらに売れたと、出まかせと思われることを話したという。
  実業家野坂喜代志は、昭和になってから平沢と知り合ったのであるが、平沢は自分は平素少食主義で飯1椀と定めていると称し、同家で饗応されたときも常に1椀しか食べない。そして自分はこれでいて警視庁へ週に3回剣道を教えに行って、幾人もの人を相手にやつて来るのだから皆が不思議がっています。カロリー学説も崩れそうですよと語っていたが、戦争中に野坂家に寄寓すると、同家中最も大食の青年組に劣らぬ健啖振りであった。しかし先きの言と矛盾しても一向平気でいた。万事このように厚かましいところがあるので、同家ではポーカー・フェイスの名をつけられていたという。


  このような平沢の病後の虚言癖などの「性格変化」に鑑定人は次のような「考察と説明」を加えている。

  しからば狂犬病予防注射によるコルサコフ症罹患後の性格は如何であろうか。回復期において1年以上にもわたつて記銘障碍や過敏情動性薄弱状態の見られたことは、上述の通りであるが、近親知己に問いたゞしたところによると、およそこの時期頃を境にして、被告人の性格には病前と比較して著しい差異が認められるようになり、しかもそれが今日に及んでいると見做すべき理由がある。
  脳疾患以後の性格として先ず最も顕著な現象は著しい虚言癖であつて、しかもその虚言は空想性虚言症(病的虚言)の範疇に入るべきものである。空想性虚言症とは一つの症状群であつて、躁病、進行麻痺、癲癇、精神薄弱などの精神障碍に際しても見られることがあるが、ことに顕揚性(誇張性)精神病質と発揚性精神病質なる二つの異常人格において、最も屡々且つ顕著に見られることがある。
  そもそも虚言は社会に広く見られる現象であるが、尋常の虚言は利益を目的として意識的且つ故意に発せられる。すなわち多くの場合虚言は目的を達する手段に過ぎない。しかるに虚言の中にはこのような確固たる目的を有せず、嘘そのものが目的であつて、利益は精々二次的意義しか持たないものがある。すなわち自分が一役演じようとか、見栄を張ろうとか、人を驚かせようとして嘘をつくのがそれである。また最初は多少意識して虚言を言うが、この虚言がやがて自己暗示によつて主観的な真実となり現実となるような場合もある。すなわち、この場合には他人ばかりでなく自己をも欺瞞することになる。而して犯罪者の中には、自己欺瞞の能力を能動的に利用して詐欺を働く者が少くない。虚言の種類としては、更に進んで最初から殆んど虚言を自覚しない様な場合も稀にはある。この場合には欺瞞という意識は全くなく、従つて不道徳性とか違法性の意識は全く欠けているのである。もつとも極端な場合は、純然たる病的空想者、夢想者であり、能動性を全く欠き、たゞ自己の願望の世界にのみ生きるもので、かゝる場合空想の世界が彼等にとつて唯一の現実である。
  それ故に空想虚言症と言つても、一方純然たる虚言者から、他方完全な空想者に至るまでの非常に広い幅を持つた概念であつて、責任能力から言つても、その完全者から自己の言動の許されないことを洞察出来ないものに至るまで、種々な段階があり、また一方、精神医学的に言えば正常に近い性格異常者から、重い精神障碍にいたるまでの種々なるものを包含する。

病的空想者
   (自己のみを欺く)
     ↑
空想性虚言症
 (他人並に自己を欺く)
     ↓
純然たる虚言者、欺瞞者
   (他人のみを欺く)

  一般に空想性虚言症を特徴づけるものは活溌な空想であるが、その原動力となるものは顕揚慾、すなわち実際にあるより以上に自己を見せようとする慾求であって、この性向は被告人の性格特徴の一つとして述べたものである。しかし、上にも説明したように、その種類は一様ではないから、彼等が純然たる故意の詐欺を働く一事実を捉えて、その病的虚言者であることを否定しようとすることは必ずしも当つていない。空想性虚言症はむしろ真実と作り事との混合であり、また虚言と妄想的空想との混合であることが少くないのである。なお虚言が曝露されたとき、平然としているところも空想性虚言症の一つの特徴である。
  さて大正14年のコルサコフ病前後から以後の被告人平沢の虚言を見ると、直ぐばれる嘘、見え透いた嘘の多いことに気がつく。辻強盗を説法し、これが数回にわたつて新聞投書となつて現われたことが扱告人の狂言であつたか否かの断定は、鑑定人のなすべき範囲以外であるが、かゝるものを除いても、平沢の虚言は数限りなく多く、しかも無邪気な誰も信じない様な法螺が少くなく、また後の不利な影響を全く顧慮しない、衝動的と思われるような虚言を吐いている。非医師治療や発明は空想性虚言者にとつて魅力のある領域であるといわれるが、平沢も指圧療法において誇大な言辞を弄して、医学的知識のないものの信仰を得たり、また船底塗料の発明を多くの人に宣伝して歩いたりする。しかし、これらは高級詐欺師のよくやるような悪辣な詐欺ではなく、むしろ他人を喜ばせることや自己満足を目的とするようなものが多く、すなわちこれらの点で、本来の空想性虚言症の特徴をよく現わしているというべきである。帝室技芸員と自称して帯広に乗り込んだ時も、信用を墜した程度でやはり大きな損害を他人に与えるようなことはなかつた。愛人との湯沢温泉逃避行のとき自殺を口癖のように言つたが、妻も愛人もこれを信ぜず、狂言にすぎないと見ていた。平沢が妻と貞一とが怪しいと言つたのも嫉妬妄想のようなものでなく、親族会議もその事実を否定したのであるが、結局それは、平沢が自己を合理化するためのものであつた。彼の畢生の事業と称するテムペラ画についても、前項で述べた事実を考慮すると、やはりその内容も宣伝も虚偽的なものであるとしなければなるまい。
  要するにこの種の虚偽は壮年期以後の被告人平沢の全生活に浸透していたと言えるように思える。平沢が得意になつて口にする三即の中の「虚即実、実即虚」は、或る意味において平沢自身の性格的本質に当る言葉である。平沢の虚言の特徴は、野坂が指摘しているように、それがばれても恬としているところにある。
  以上によつて現在の被告人の状態が空想性虚言症と呼ばれるものに当ることは疑いの余地はない。しかし、かく言つて被告人の行為が悉く同程度の空想虚言的内容であるということは出来ない、例えば今回三菱銀行において通帳を詐取してこれを偽造し、詐欺を行わんとした行為の如きは純然たる欺瞞行為であるし、また本人の認めている定期券の変造行使や二重配給なども、尋常な欺瞞行為にすぎない。すなわち各種の虚言が被告人の中に混交していると見做すべきである。
  甚だ重要なことは、以上の如き被告人の異常性がいつ頃から発現したかということであるが、鑑定人の検討した限りでは、その大部分がコルサコフ病罹患以後のことに属し、病前にはほとんど発見することが出来ない。弟貞敏は被告人が病後は病前と違つて誇大妄想のようになつたと言つているし、妻マサも平沢は病前には病後のような見え透いた粗大な嘘を言わず、精々冗談のような多少きざな感じのすることを言う程度であつたという。愛人鎌田も病気以前に平沢に接したときには別に大きいことを言う人と思わなかつたと述べている。日本水彩画会の関晴風、朝月省三.小山周次はいずれも平沢を古くから知つている同僚画家であるから、鑑定人はそれぞれを別個に訪問してこの点を尋ねたのであるが、3人共に病前の平沢には病後に見られるような著しい異常は認められず、病気を境にして前と後には明瞭な差異が認められるという。また画家にして同時に優秀なる医学者たる小山良修の語るところによると、水彩画会において平沢は病後には一度も責任ある役につけられなかつたが、これは病後責任を重んぜず、その為めに一般の信頼を失つていたためであろうと言つている。石井柏亭も平沢は病前には病後のような嘘は言わなかつたと言うし、石井鶴三は平沢は病前にも画について大きく宣伝していたが、見え透いた様な嘘は言わなかつたと言つている。
  しかし他方友人の中にも中学の同窓内山(銀行員)や中学の先輩荒滝(医師)の如きは、平沢の性格において、昔と現在とを比較して変化した点は認められないと言つている。但し内山は、病後の平沢との面談は常に銀行における短時間に限られ、深い交友ではなかつたので、気附かないのかも知れないと述べている。荒滝との交際も、職業が異つていたために比較的短い接触であつたにすぎない。内山、荒滝の他に安達医師や平沢猛も、中学時代から今日に至るまで変ることなく交際した友人であるが、これらの人々も現在と雖も被告人に対して別に不快な感を抱いていない。病後から交際を始めた松野恵蔵、朝枝文祐、朝枝保雄、伊藤梅吉なども平沢の人格を信用し、或は少くとも疑を抱いていない。それだから病後の平沢の人格の異常性は、誰にでも常に認められる程のものではなく、殊に短時間の表面的な接触では、必ずしも人の信用を失う程のものでなはかつたと見做すことが出来る。
  人格の異常性は、日常生活を共にする人々には明瞭であるにも拘らず、短時間の会談においては専門家と雖も発見し得ないことが屡々である。況して徴細な人格の変化というものは、よほど親しく接触ししいる人でなければ把握出来ないことである。しからば平沢の近親者は被告人を如何に見ていたであろうか。先ず妻マサの観察によると、平沢は病後には病前と比較してデリカシーがなくなつたという。病前は読書を好んだが、病後は好まなくなり、読書しても永続きしない。その代りラジオを聴くことを非常に愛好し、旅行にまで携帯して離さなかつた。また病前には家庭のことを相談すると適当に処理してくれたが、病後は聞いていて途中でラジオに気を取られるという風で頼りにならなくなつて、自然自分で処理しなければならなくなつたという。長男達也も父のやり方がまどろこしいので、つい母が積極的にならざるを得なかつた。母は父を立てていたし、嬶天下ではなかつたと述べている。なお妻マサの言うところによると、平沢は鎌田との関係を改めるかのように見えることがあつて、時には合掌して純粋な感情になつていると見受けられることがあるが、次の瞬間には全く変化してしまう。また病後は極端に迷信家となつた。人の好悪などについても偏頗で、一度悪い人だと思うとその儘無批判に固執して変えないようになつたという。このことは2女曄子も認めており、父のことを観念固執症と呼んでいる。例えば被告人が道路の交叉点で停止信号を誤つて車にはねられ、怪我したり、袴を破られたりすることが時々あつたが、後でも未だ自己の誤りを認めないのが常であつたと言つている。病後の平沢には又、例えば煮物をしている時、他所で火が欲しいと思うと煮物をしていることを忘れて火を取つてしまう様な不注意の行動が時々見られたが、病前にはこれ程顕著なことはなかつたという。長男達也はどこということは言えないが、父は病後変つたと思われると言つている。親戚の杉山誠治も、病後の平沢は一応治つたように思われるけれども、よく見ていると何となく変で、狐を馬に乗せたような感じがすると述べ、また平沢要の話では、貞通は元来虚栄心の強い男であつたが、病後には気味が悪く危いという感じがしたので特に要心していた。しかし不義理なことは一度もしなかつたと言つている。愛人鎌田は平沢を子供らしい幼稚な人と思われることがあると言つている。平沢の家族と親しい渡辺貞代は、平沢のことを低能ではないが賢くない人だと評している。

〔判断〕
  以上によると、特記すべき遺伝負因を有しない比較的優秀な家系に生れた被告人は、生来多少循環気質と顕揚性性格を持つてはいたが、比較的堅実な画家として生活を送つて来たところ、大正14年の重症脳疾患の頃を境として著しくその性格を変え、従来からあつた循環性気質と顕揚性性格は病後において一層顕著となり、強い誇大的傾向と自己感情の亢進、虚栄心、誇張癖、芝居染みた態度などを示すようになつたものと判断出来、しかもこれらの性格異常は、その程度から見て、生来性顕揚性精神病質と異るところはないと考えられる。
  ところでこの性格傾向は、現在症で述べた精神検査の結果によつても裏書きすることが出来る。そこでこの精神検査の結果を今一度要約すると、第1に指摘しなければならないことは、テスト全般に対して被告人が意識的に全精神能力を傾けず、愚鈍者も示さないような低い成績を出していることのある点である。外面的は大体熱心に従事するので、この成績を真実の能力と見る見方もあるが、鑑定人等はこの不合理の成績にまず被告人の不真実な性格を疑わざるを得なかつたのである。すなわち、このこと自体が被告人の虚偽的な性格の表現と見做すことが出来る。次に知能検査においては、教育程度に比してその知能は意外に低く、特に批判力が劣つてはいるが、これも上述の意味で真偽のほどは疑問である。しかし、いずれにしても精神薄弱を疑わしむるような欠陥はなく、道徳的判断にも障碍を認めない。ところが記銘力は普通よりも多少よいけれども、空想が活溌であつて忘却数よりも追想の誤りの多いところが特徴であり、また文章を再生させるテストでも、やはり自己の空想によつて原文とは違うものを勝手に作つて平然としているし、また聯想試験でも外聯合が多く、空想の活溌なために間接聯合の相当多いことが認められる。殊に意味の多いのは要求水準検査であつて、このテストでは終始楽天的顕揚的で、自己判断の失敗に対しても一向に屈托の色なく、一般に要求水準曲線が作業曲線よりも高いという注目すべき成績を示すのである。要するにこれらのテストの結果は、いずれも被告人の性格特徴が空想的で虚偽多く、しかも自らの能力を高低いずれかに誇張して示そうとするものであることを示す所見である。
  さて以上によつて、大正14年の脳疾患の頃を境として被告人の性格に変化が起ったことは推量できたのであるが、しからば果たして脳疾患自体がこの性格変化の原因であったかを検討せねばならない。何となれば、この頃は被告人が37,6歳の壮年期で、家族も増し、世間への体裁も考慮すべき時であって、虚勢を張る生活態度に出るにいたったことも考えられるからである。さらに一層重要なことはかかる性格変化が狂犬病予防注射後の状態として生じ得るか否かの検討である。
  鑑定人等は、諸般の事情を一切考慮して勘案した結果、被告人の性格変化と脳疾患との因果関係を肯定すべきであるとの結論に達した。その理由としては第1に、当時かゝる性格変化を誘発するほどの著しい環境的推移はなく、しかも被告人の虚偽的顕揚的性格が常に必ずしも利益を目的とするものではないこと、第2に、被告人の既往歴を通じてかの脳疾患に匹敵すべき医学的障碍を他に見出し得ないこと、而して第3に、狂犬病予防注射後の精神障碍として、被告人の性格変化に近似のものが皆無にあらざること、等を挙げることが出来る。これらのうち第3の理由は最も重要であるが、同時に鑑定人等が最も慎重に考慮したところである。何となれば、かゝる現象の存在は従来の医学的文献の上にはほとんどなく、換言すると鑑定人等が新しく発見した事実とも言い得る事柄であるからである。鑑定人等は近時この問題を研究し、予防接種後のコルサコフ症状群を約10例見出すことに成功したことは上述の通りであるが、そのうちにはコルサコフ症の治癒後更に重い人格変化と虚言症を残した例があるのである。
この患者は現在48歳の医師で、大正13年狂犬病豫防注射後にランドリー上行性麻痺と精神障碍(當時診療した医師の話では今から考えるとコルサコフ症状群であつたかも知れないという)を惹起し、(平澤よりは輕く)4ヵ月近くで治癒したが、その後の性格が極めて顯著に變つて今日に至つている。すなわち以前は友情に厚かつたが、今では親友もなく、誰も彼と約束をするものがない程信用がない。また、あまりにむき出しの嘘をつく。すぐばれることを平氣で嘘をつく。企らみなく、衝動的な嘘であつて、大抵利益は眼中になく、無邪氣な嘘である。しかし時には祖母が死んだと言つて友人から香奠を集めたという功利的虚言を吐くこともあつた。嘘の他にそゝつかしくなつたことが著しい。例えば妻の妹の結婚式場で、自分の娘を他の美しい娘だと思つて、丁寧にお辞儀したという珍談がある。しかし、かゝる性格變化にも拘らず、自己の本來の医業には従事出來て、医療に關する限り信用を受けている。本例はあらゆる點で被告人平澤に酷似しているということが出來、しかも共に狂犬病豫防注射による脳疾患に基く性格異常と見做さなければならないであろう。
  被告人の異常性格が後天性のものであつて、生来的のものでないことを推測させる他の事実としては、生来性の病的虚言者に屡々認められる家系的負因が被告人の家系に存在しないことをも挙げることが出来よう。同質の性格特徴は好んで同一家系に累積するものであり、病的虚言についても従来の文献はこのことを示すのであるが、上述のように、被告人の家系には類似の性格特徴者が皆無である。次に生来性の病的虚言者であれば、これが社会生活の面に発揮せられるのは概ね早期であり、殊に青春期の頃までにその萠芽の見出されるのが常である しかるに、被告人においては、その多少の生来的傾向は否定出来ないまでも、これが顕著な形式において周囲の注意を惹くにいたつたのは、中年以後のことに属することが明瞭であつて、この点も亦この性格異常が何等かの後天的原因によつて惹起せしめられたことを推量せしめる重要な理由である。
  これを要するに、鑑定時における被告人の精神状態は、狂犬病予防注射に端を発する脳疾患によつて起された性格異常の状態で、その特長は顕揚性格の基地に発展した病的虚言症乃至空想性虚言症であると綜括することが出来る。而してその性格異常の度合は被告人の人格にとつて重要であるが、この点についての判断は「司法精神医学的考察」の項で述べることにする。

  この「考察と説明」で重要なことは「鑑定人らは、諸般の事情を一切考慮して勘案した結果、被告人の性格変化と脳疾患との因果関係を肯定すべきであるとの結論に達した」といい、「従来の医学的文献の上にはほとんどなく、換言すると鑑定人等が新しく発見した事実とも言い得る事柄である」として「病的虚言」などの「性格変化」が脱髄性脳脊髄炎の症状として起こり得ることを症例をあげて説明し、生来性の病的虚言者(精神病質)とのちがいを克明に指摘しながら「司法精神医学的考察」では一転して、精神病質と同一視して、前述のように、完全責任能力を認める矛盾をおかしていることである。
  鑑定書に極めて詳細に記録されている「生来性顕揚性精神病質と異るところはない」「空想性虚言症」が、平沢だけでなく、平沢によく似た症例として鑑定人が挙げている48歳の医師をはじめ何例かの狂犬病予防注射による脱髄性脳脊髄炎の罹患者に認められるとすれば、考察されなければならない問題は「空想性虚言症」に似た臨床症状が脱髄性脳脊髄炎の罹患者に出現する脳内機序である。この考察の端緒となるのは平沢ら狂犬病豫防注射の副作用の犠牲者に見られる「空想性虚言症」に似た臨床症状がコルサコフ症状群に引き続いて起こるという事実である。
  コルサコフ症状群は健忘症状群とも云われ、物忘れ(記銘障害)、失見当、作話(空想的虚言)を主症状とし、急性期には譫妄などの意識障害を呈することある症状群である。慢性酒精中毒、一酸化炭素、頭部外傷、などの脳疾患、あるいは脳外傷の症状としてみられることは古くから知られていたが、狂犬病予防注射の副作用である脱髄性脳脊髄炎でも起こりうることを立証しているのがこの内村・吉益鑑定の記述なのである。
  コルサコフ症状群の脳内機序については、これまでの神経病理学的研究で海馬、乳頭体を含む大脳辺縁系の関与が知られている。狂犬病予防注射の副作用である脱髄性脳脊髄炎の病変部位もおそらくこの部位に局在するものと思われる。平沢の脳については、死後、遺族、弁護団の切なる希望により、東京大学医学部病理学教室で剖検に付されたが、遺族、弁護団、関係者の要望にもかかわらず、今日までその所見が明らかにされていないのは医学的見地からも、司法精神医学的見地からもきわめて遺憾なこととして弾劾しなければならない。
  コルサフ症状群は器質的脳疾患の症状であるが、知的障害(痴呆)のような回復しない不可逆的障害と異なって、回復可能な可逆的障害であり、ウィークが通過症状群と呼んだものに相当する。意識障害や記憶障害は回復するけれども、しはしば誇張、誇大的傾向、自己感情の亢進、作話、情動過敏、被暗示性の亢進などの情意面の異状を主とする症状がしばらく残存することが多い。鑑定人は平沢の精神検査の結果について、「記銘力は普通よりも多少よいけれども、空想が活溌で、忘却数よりも追想の誤りの多いところが特徴であり、また文章を再生させるテストでも、やはり自己の空想によつて原文とは違うものを勝手に作つて平然としているし、また聯想試験でも外聯合が多く、空想の活溌なために間接聯合の相当多いことが認められる」としながら、この異常所見を「自らの能力を高低いずれかに誇張して示そうとするものであることを示す所見である」として作為によるものであるとしているのは納得できない。この所見はコルサコフ症状群の遺残として理解すべきである。
  平沢の「脳疾患後の精神状態」を精神病質としての空想性虚言症に同一視することなく、通過症状群としてのコルサコフ症状群の回復過程として認識するならば、帝銀事件当時の平沢の精神状態は鑑定書の解釈とはおのずから変わってくる筈である。鑑定人は帝銀事件当時の平沢に完全責任能力を認めた理由について「彼が重い脳疾患に罹ったことは事実だが、それはすでに23年も前のことである。たとえ、その後、性格が変化して、常軌を逸した行為があったとしても、べつに犯罪を犯すでもなく、一人前の社会人としての生活を営み、ことに帝展無鑑査の画家として社会の尊敬を受けてきたのだから、現在の性格異常は裁判医学的にみて、生来性の性格異常に準じて判断されるべきものであり、しかも現在の異常程度は、免責または減責の対象とするほど高度のものではない」(1968)18)と述べているが、鑑定書の「脳疾患後の精神状態」に詳しく記載されているように、鑑定人か「欺瞞癖」、「空想性虚言症」と見なした数々の「常軌を逸した行為」があって、家人、関係者を困惑させていたばかりでなく、そのクライマックスとして、丸ビルの三菱銀行詐欺 (昭和22年11月)、これに続く私文書偽造行使(昭和22年12月中)を起こしており、「べつに犯罪を犯すでもなく、一人前の社会人としての生活を営む」状態ではなかった。三菱銀行詐欺、私文書偽造行使についての公訴事実およびこれに関する鑑定人に対する平沢の陳述を読めば明らかであるように、帝銀事件とは全く異質の、無計画、偶発的で、盲目的といってよい、動機の不明な常軌を著しく逸脱した行為であり、「自己を統御する能力の著しく減退した状態」のもとでの行為としてはじめて理解できる種類のものである。
  これらの「犯行」が行われた当時、平沢は司法精神医学的に、「精神の障害により行為の是非を弁別し、またはその弁別に従って行動する能力」(責任能力)の著しく損なわれた状態であったとしなければならない。この「精神の障害」が脱髄性脳脊髄炎なる器質的脳神経疾患に基づくものであることはいうまでもない。
  自白当時の平沢の精神状態についても、彼が脱髄性脳脊髄炎の罹患者であり、被暗示性亢進などのコルサコフ症状群のまだ遺残した状態にあったことから、鑑定人の判断とは異なって、前述のように、拘禁反応、なかんずく拘禁精神病と言い得る異常な精神状態にあつたことを、容易に推定することができる。たとえ身体的拷問なとはなくても、連日長時間にわたる警察や検察の自白を迫る取り調べは正常な人間にとっても強力な心理的ストレスとして働き、拘禁反応に陥りやすいことはよく知られた事実である。その上、一般に器質的脳疾患に罹患した者の、心身のストレスに対する抵抗性が脆弱であることは周知の事実である。平沢もその例外ではありえない。冤罪事件のほとんどは拘禁状況のもとでの過酷な取り調べによる虚構の自白に基づいている。

7.内村・吉益鑑定の教訓

  平沢の鑑定人である内村祐之は私の恩師であり、私の最も尊敬する精神医学者である。また、吉益脩夫は司法精神医学の領域での私の優れた先輩である。この2人の精神医学の先達が行った精神鑑定に、敢えて私が批判と反論を加えるのは、一つには平沢という一人の人間が法治国家であるといわれているわが国でその名に恥かしい無法な仕打ちを受けていることに沈黙していることが耐えられなくなったこと、二つにはこの人権侵害に精神鑑定が関与したことは精神鑑定の本旨に反することであり、このような過誤を私たちが起こさないために、内村・吉益鑑定を反面教師として学ばなければならないと考えたからである。
  内村、吉益のような優れた精神医学者が平沢の精神鑑定で、多くの批判に甘んじなければならない、論理的矛盾をおかすことになった主要な原因は、検事の作文である「公訴事実」をそのまま鵜呑みにして、平沢を帝銀事件の真犯人であると信じ、この前提に立って鑑定を行ったことにあると私は考える。
  この前提がそもそも問題である。鑑定書の冒頭に引用されている検事の作成した公訴事実は二つの部分から構成されている。第一は昭和22年11月25日から12月中に行われた丸ビルの三菱銀行詐欺事件と私文書偽造行使であり、第二は安田銀行荏原支店における強盗殺人未遂 (昭和22年10月14日)、三菱銀行中井支店における強盗殺人予備 (昭和23年1月19日)、帝国銀行椎名町支店における強盗殺人(昭和23年1月26日)である。以下の考察で、第一を詐欺事件、第二を帝銀関連事件と呼ぶことにする。公訴事実がこれらを分けたのは第一の詐欺事件については逮捕後すぐ平沢が犯行を認めたが、第二の帝銀関連事件は一ヶ月余の取り調べの後に「自白」したので追起訴となったためである。公訴事実の記載を読んだだけでも、第一の詐欺事件と第二の帝銀関連事件とは犯罪の性質が全く異なることがすぐ判る。 
  公訴事実によると、第一の詐欺事件というのは、被告人平沢貞通は、昭和22年11月25日、東京都千代田區三菱銀行丸ビル支店において、丸の内2丁目株式會社永田製作所事務員眞島日竹子が同會社専務取締役長谷川二郎名義の普通預金通帳(預金殘高12,479圓42錢のもの)および金1万圓の拂戻請求書を同銀行係員に提出し、その番號札を受領して拂戻しを待ち居るうち、友人阿部恵津子と雑談し居る同女の隙に乗じ、偶々同行内の客待椅子の上に遺留しありたる他の番號札を拾得、これを利用して右拂戻し金、および預金通帳を騙取せんことを企て、同行員が右番號を呼出しなしたるに應じ、恰も右拂戻請求者の如く装いて拾得せる番號を係員に提出し、同人をしてその旨を誤信せしめ、右拂戻金1万圓および普通預金通帳(殘高2,426圓42錢のもの)一通を交付せしめて騙取し、同年12月10日、同都中野區宮園町通り2丁目32番地なる自宅において、行使の目的を以て右預金通帳を擅に昭和22年11月26日125,000圓、同年12月1日に15万圓、同月13日30万圓、同年12月25日10万圓各預入れの記入をなし、同年11月27日65,000圓、同年12月18日6万圓、同月20日11,000圓の各拂戻しの記入をなし、何れもその該當課に同行員の認印なるかの如く装いて鎌田、山口、平沢の各有合せ印を押捺し、右三菱銀行丸ビル支店の各預入拂戻しの文書を偽造したる上、(1)同年12月27日、大田區山王2丁目2615番地金融業高木茂之方において、同人に對し右偽造したる通帳を恰も眞正に成立したるものの如く装い提示行使し、この通り預金があるが土曜日にて銀行より拂戻し不能にて商品仕入れの必要上今日金が10万又は20万要するが、この通帳と印鑑を擔保に15万圓貸與されたき旨虚構の事實を申付けて金員の借入れ方申入れ、これを騙取せんとしたるも拒絶せられてその目的を遂げず、(2)同月28日、同區馬込東3丁目988番地金融業竹内春雄方において、同人に對し右同様前記偽造預金通帳を示し、「この預金通帳と印鑑を擔保に明日まで20万圓を貸與せられたく、商品の買付金が今日必要につき返濟は明日銀行へ同行して拂戻の上支拂う」旨虚構の事實を申付けて同人を欺き、右偽造預金通帳を擔保差入れ名義に貸付けして行使したる上、借入金名義に同人拂出しの帝國銀行大森支店拂額面金20万圓の小切手一通を貸付せしめてこれを騙取し、(3)同月29日、中央區銀座5丁目2番地日本堂時計店において、右騙取したる小切手を恰も正當に支拂を受け得べきものなるかの如く装いて時計等を騙取せんことを企て、同會社取締役社長佐川文一に對し、約16万圓餘相當のダイヤモンド入指輪、時計、外四品を指定して購入方申入れ、その代金支拂いに代え右小切手を交付したるも右佐川に怪まれ、商品受領前同人が小切手支拂銀行に問合せに行きたるため目的を遂げさりしものなり、というもので、この事件が計画的なものでなく、公訴事実にも「偶々同行内の客待椅子の上に遺留しありたる他の番號札を拾得、これを利用して右拂戻し金、および預金通帳を騙取せんことを企て」とあるように、たまたま、小切手の換金に訪れた銀行で落ちていた番号札を拾ったことがきっかけで、次々と思い付きの事件を起こすが、みんな尻尾を出して失敗するという、この当時の平沢の異常な精神状態(欲望の抑制困難などのコルサコフ症状群の遺残症状)によって説明できる異常行動である。
  公訴事実の第一に挙げられている詐欺および私文書偽造行使なるものが、当時の平沢の家族や周辺の人たちを悩ました「常軌を逸した異常行動であることをはっきり示しているのは、鑑定書に記載されている、鑑定人の犯行に関する質問に対する平沢の陳述である。

  帝銀事件の前年の夏から冬にかけて、たぶん秋ごろでしたが、私か゛誰からか1000円の小切手を受け取ったのですが、金が必要だったので三菱銀行に受け取りに行ったときのことでした。その時丁度印鑑を所持していなかったので、送り主の印鑑を作って行きました。私が申し込んで窓口の側の腰掛けに休んで待っていますと、ふと傍らに誰が忘れたのか番号札がおいてありましたが、そのうちに窓口でその番号を呼んでいるのでついふらふらとその札を持って、窓口で金を受け取ったしまったのです。それが1万円だったので、すぐこんな大金をこまったことをしたと後悔したがすでに遅く、自分ながら浅ましいことをしたと思っておりました。やがて私の番がきて自分の1000円を受け取り銀行を出ましたが、1万円が気になって仕方がありません。そこで思いついてすぐタクシーを呼び、300円で上野公園の西郷さんの銅像下まで行き、地下道に入り、地下鉄乗り場の方へ曲がったところに、浮浪児が25人位座り込んでいたので、「捨離輿身、唯懼悩患到汝」と経文を唱えながら、一人に2、3百円宛喜捨し、そこで1万円全部を費やし、「誰にもいうなよ」と注意しました。彼らは大喜びで「また来てくれよ」など言っていました。それから永藤で休んだまでは記憶しておりますが、あとは不明です。
  それから一週間以上たってら、ふと1万円と一緒に受け取った通帳に気がつき、ポケットをさぐったところ、たしかにありましたので、これをテンペラ画会の金に流用しよう、どうせ一度罪を犯したのだからと、今考えてもお恥ずかしいような自棄的な気持ちになり、どうしたら金を引き出せるかを考え始めました。通帳名は長谷川だったと思います。偶々新聞で大森に金融家がいるのを知り、長谷川という印鑑を大森で作らせた上、2、30万円位のいい加減の金額を通帳に記入し、銀行員のところへは、その時持っていた鎌田、山口、平沢の印をつき、その金融家を訪ねたところ、怪しいと思われたのか拒絶され、大森新井宿の消防署筋向かいの他の金融家を紹介されました。そこで20万円融通して、大森第一銀行の小切手を呉れました。それが土曜日の午後のことですが、翌日は休みでしたので、月曜の朝銀行に行ったところが、先日の男がすでに来ていて、通帳では金融出来ないと拒絶されました。それから2、3日後銀座の日本堂という時計商で、指輪についた小さな時計がほしくなり、これを銀行で使わなかった小切手で買いたいと思い、序でに側にあった14万円位の金の指輪も一緒に支払いたいと申し出たところ、主人が銀行に手配する気配でしたから、これは困ったと思い、ちょっと煙草を買ってくると嘘をついて逃げ出しました。後で悪いことをせずによかったと思いました。あのようなことをした動機は、テンペラ画会会費を6,7万円使い込んだのを補充したいためであったのです。今申し上げたのは法廷での陳述と大体同じですが、日付や名前などは検事から暗示されたので多少食い違っています。

  この陳述によれば、平沢は銀行で折角入手した1万円を「浅ましいことをしたと思って」、すぐに上野の地下道に行き、居合わせた浮浪児25人位に経文を唱えながら罪滅ぼしに全部喜捨したというし、通帳の改竄の動機が「使い込んだテンペラ画会会費6,7万円を補充したいため」であったにもかかわらず、銀座の時計店日本堂に立ち寄ると、たちまち、指輪についた小さな時計や金の指輪が欲しくなり、改竄した通帳で手に入れた小切手で支払おうとしたとが、「主人が銀行に手配する気配でしたから、これは困ったと思い、ちょっと煙草を買ってくると嘘をついて逃げ出した」など、行動の計画性、一貫性欠如を端的に示している。この無計画で、首尾一貫しない、コルサコフ症状群の遺残症状のなせるわざとしか考えられない「詐欺、私文書行使」事件と性質を全く異にするのが帝銀関連事件である。
  私が帝銀関連事件と呼んだように、この事件は昭和23年1月26日の帝国銀行椎名町支店における強盗殺人とこれに先立つ、全く同様の手口の、安田銀行荏原支店における強盗殺人未遂 (昭和22年10月14日)、三菱銀行中井支店における強盗殺人予備 (昭和23年1月19日)の三つの犯行から構成されており、使用薬物の量が少ないために、目的を遂げなかった昭和22年10月14日の安田銀行荏原支店における強盗殺人未遂、他銀行の行員がたまたま同席したために毒物の犯行使用を見合わせた昭和23年1月19日の三菱銀行中井支店における強盗殺人予備を前奏曲として、世紀の犯罪である帝銀事件が実現したもので、犯行がきわめて計画的であり、試行錯誤といった科学的手法さえ認められること、なかんずく防疫、殺人毒物に関する専門知識を必要とすることが公訴事実を読んだだけでも明らかである。
  公訴事実をすこし注意してして読めば、おそらく誰でも第一の詐欺、私文書偽造行使事件と第二の帝銀関連事件は異質であり、同一犯人の仕業ではありえないことに気がつくだろう。このことをさらに私たちに確信させる事実がある。それは公訴事実に記載されている五つの「犯行」の時間的順序である。おかしなことに、第一の詐欺、私文書偽造行使(昭和22年11月25日から12月中)は、第二の帝銀関連事件のはじまりである安田銀行荏原支店における強盗殺人未遂 (昭和22年10月14日)と、それに続く二番目の犯行である三菱銀行中井支店における強盗殺人予備 (昭和23年1月19日)の間に起こっているのだが、計画的で、慎重な帝銀関連事件の犯人が、大量殺人とは無縁の、しかもすぐ足のつくおそれのある「詐欺、私文書偽造行使」を引き起こす必然性はきわめて乏しいとしなければならない。第一の公訴事実、「詐欺、私文書偽造行使」は平沢の公判および鑑定人に対する陳述のように、彼自身の行為であるが、第二の公訴事実、すなわち帝銀関連事件の犯人は平沢とは別人である可能性がきわめて高いことを公訴事実の記載そのものが、実に明白に物語っているのである。
  検事作成の「追公判請求書公訴事実」は平沢を帝銀関連事件の犯人としてきびしく訴追しているが、肝心の犯行の動機については「…太平洋戰争の勃發進展と共に社會状勢の惡化は右畫會(平沢が会長を務めていたテンペラ畫會のことー秋元)の衰微を來し、且つ畫作に依る収入も漸次減少し、經濟的にも窮迫するに及んで、日本將兵が他國民を殺戮略奪して尚褒賞を受ける實情を歪曲して、テンペラ畫會復興の爲には多少の人命を犠牲とするも又許容せらるべきものなりと自己辯解を加えたる上、曾て新聞紙上にて讀知せる「増子校長毒殺事件」に暗示を得、青酸加里を使用して銀行を襲撃し一擧に巨額の資を得んことを發意し、云々」となっていて、テンペラ畫會復興の資金を得ることが犯行の動機とされているが、前述のように、「詐欺、私文書偽造行使」の動機についても平沢はテンペラ畫會を持ち出しているのであり、平沢が後に「ありのままの記」、その他の手記に書いているように、高木検事のきびしい追及に対する苦しまぎれのごまかしだと見るのが妥当だろう。「日本將兵が他國民を殺戮略奪して尚褒賞を受ける實情を歪曲して」というのもいかにもとってつけたように不自然である。この公訴事実の致命的欠陥は肝心の凶器である毒物が青酸加里ではなく、青酸化合物であることが公判で明らかになったことである。要するに帝銀関連事件の公訴事実なるものは事実に反する検事の作文であるということである。こんなおかしなことになったのは、「空想性虚言」そのものである平沢の虚構の自白をもとにして、公訴事実なるものがでっちあげられたからてある。
  きわめて遺憾なことはこのでっちあげの、真実に反する公訴事実をそのまま信用して、平沢を帝銀関連事件の真犯人と思い込んだ鑑定人の姿勢である。裁判が始まった当初から、平沢の無実を主張する多くの論説が発表され この冤罪を世論に訴える運動が巻き起こっていたが、鑑定人の筆頭である内村はこれらを巷間の浮説として全く耳を貸そうとしなかった。鑑定人に対する平沢の無実の訴えは虚言として退けられた。後年、内村は回顧録18)で、「この裁判をめぐって、さまざまなうわさが流れ、真犯人は他にありとする人々は「平沢貞通を救う会」なるものをつくって、活動を始めた。その会員の中からは、事件当時、平沢が所持していて、その出所につき、どうしても申し開きのできなかった大金に関し、手のこんだ偽証をして、起訴される者まで出るという騒ぎである。自分と何のかかわりもない人のために偽証までする気持ちは、われわれには到底わからないが、とにかく、この事件には変にスッキリしないものがまつわっていた。朝日新聞の矢田某なる記者の、何とも腑に落ちぬ執拗な暗躍もあった。そして、それに乗じられたのか、われわれの共動者の中からさえ異見を述べるものが出るという始末である」と述懐している。検事に対する平沢の自白当時の精神状態についても、拘禁反応の兆候を認めながら、その真実性について確固とした否定的判断を示すことを避け、結果的に平沢の自白に信憑性ありとする検事の主張を裏付ける結果を招いた。
  内村は「平沢が真犯人であるか否かは、ひとえに裁判所の判断にかかわることであって、精神鑑定人はそれに何のかかわりも持たない」18)と述べている。たしかに内村の云う通り、真犯人かどうかの判断は裁判官の職務であることは間違いないけれれども、真犯人かどうかの判断に精神鑑定は全くかかわりがないのだろうか。そのしからざることを私たちに教えているのが他ならぬ内村・吉益鑑定である。何故なら、鑑定人は荒唐無稽の「公訴事実」を盲信して、平沢の無実の訴えを虚言として退けているからである。「公訴事実」を無批判に受け入れ、被鑑定人を頭から真犯人と見なして精神鑑定を行うこと自体、まさに鑑定人が「犯人かどうかにかにかわりを持つ」ことにほかならないのではないか。その意味で精神鑑定は誤った裁判の援護の役目をはたすことにもなるし、反対にそれを阻止することもできる。それ故に、鑑定人は被鑑定人が犯人かどうかについて、必然的にかかわりを持たざるを得ない。鑑定を行うものは、自分の鑑定が真犯人かどうかの判断や量刑に影響するするが故に、慎重に全力を傾注して精神鑑定に従事する。現に内村の平沢鑑定が真犯人かどうかの判定に影響したからこそ、社会から注目され、多くの批判の対象になったのである。
  精神鑑定人にとって、被鑑定人が真犯人か否かは、かかわりがないどころか、実は精神鑑定成立の基本的前提なのである。何故なら、もしも被鑑定人が真犯人でなければ、犯行は存在しないのだから、精神鑑定の主要テーマである「犯行時の精神状態」に答えることは無意味だからであ。それにも拘わらず、大方の精神鑑定人は検察官の公訴事実、あるいは、警察の取り調べの記載をそのまま犯行事実と認定して、被鑑定人を真犯人と見なすことを前提として考察を加えるのが慣わしとなっている。多くの場合、この前提は成立するから問題がないが、時にはこの前提が成立しないことがある。一審で有罪となった者が二審、あるいは最高裁で無罪となることがあり、死刑囚の冤罪事件すら起こりうる。裁判官は万能の神ではない。誤審は時に不可避であり、それ故に再審制度が設けられているのである。このような誤審に被精神鑑定人は真犯人であるとの前提に立った精神鑑定が援用され、それが精神鑑定非難の一因となっているのは、頗る遺憾なことである。 
  精神鑑定は誤審の助っ人の役割ではなく、真実を明らかにするという精神鑑定本来の使命を果たすために、鑑定人は被鑑定人が真犯人であるか、否かをまず確かめる必要がある。一件記録を精読すること、もしも被鑑定人が無実を訴える場合にはその訴えに耳を傾けることによって、真犯人か否かの判別は精神科医にとって決して不可能ではない。真犯人であることがきわめて疑わしい場合には、その理由を明らかにして、精神鑑定を辞退すべきであるが、もしも、「自白当時の精神状態」が問われていれば、これに対して精神医学的考察を加え、公正な意見を述べるべきである。自白の真実性の判断は裁判官の権限に属するが、鑑定が裁判官の自白の任意性・信用性の判断に影響を及ぼすことは避け難いところであろう 
内村・吉益鑑定が私たちに遺した最大の教訓は、刑事事件の精神鑑定の前提は被精神鑑定人が真犯人であることであり、その意味において、精神鑑定を行う者は被鑑定人が真犯人か否かについて不可避的なかかわりを持っているということである。

8.おわりに 

  ―帝銀事件はまだ終わっていない
帝銀事件は昭和23年の事件であり、この不可解な大量殺人事件の犯人として死刑を宣告され、死刑囚として、その人生の大半、40年という長い歳月を刑務所で過ごし、終始無罪を訴え続けながら、95歳で獄死した平沢貞通のことも人びとの記憶から消え去ろうとしている。しかし、平沢の生前に始まった再審請求の運動は彼が亡くなった後も続けられ、1989年5月10日、平沢の養子となり、平沢の復権運動を続けている平沢武彦と遠藤誠らの支援弁護団によって第19次再審請求が東京高等裁判所に提出された。この請求に対して東京高裁はまだ態度を明らかにしていない。
  私が精神科医として「平沢貞通氏を救う会」に加わってこの再審請求を支援しているのは、平沢を帝銀事件の犯人と断定し、死刑を判決した一審から最高裁に至る一連の裁判が、私の専門である精神医学の立場から到底納得できない不合理なものであるばかりでなく、この不合理を支持したのが精神鑑定であるからである。精神鑑定に関心を持つ一人でも多くの精神科医が平沢復権の運動に精神医学の立場から協力することを望んでやまない。帝銀事件はまだ終わっていない。

文献

1) 秋元波留夫:内村祐之先生の業績.東京大学時代.秋元波留夫監修:内村祐之. その人と業績.創造出版.1982.
2) Akimoto,H.:Two cases of pseudologia phantastica: Consideration from the viewpoint of forensic psychiatry. Psychiatry and Clinical Neurosciences.  51,1997.
3) Delbrueck,A.:Die pathologische Luege und die psychisch abnormen Schwindler.Stuttgart,1891.
4) 原田憲一:器質性精神障害と責任能力.臨床精神医学12.1983. 
5) 春原千秋:狂犬病予防注射による脳炎の精神神経症状について. 精神経誌 58.1956.
6) 針生一郎編: 平沢貞通画集.アオイコーポレーション.1992.
7) 平沢武彦: 平沢貞通祈りの画集.ダイナミックセラーズ.1985.
8) 北潟谷仁:帝銀事件被告人平沢貞通の精神鑑定.札幌弁護士会報5,1987.
9) 松本清張:日本の黒い霧.文芸春秋社.1961.
10) 宮城音弥: 森川哲郎:帝銀事件.番町書房による.1972
11) 宮城音弥:帝銀事件を分析する.推理ストーリー,1969.
12) 森川哲郎:帝銀事件.番町書房.1972.
13) 森川哲郎:獄中一万日.追跡帝銀事件.図書出版社.1977.
14) 森川哲郎解説:遺書帝銀事件.わが亡きあとに人権は甦れ.徳間書店.1979.
15) 縄野純三:平沢貞通帝銀死刑囚獄中記. 現代社, 1956.
16) 白木博次:この道. 東京新聞夕刊, 1997年7月16日-18日、21日-26 日、28日.
17) 内村祐之、吉益脩夫:脱髄性脳炎後の空想虚言症とその刑事責任能力について─大量殺人事件被告人の精神鑑定.精神経誌59.1957.
18) 内村祐之:わが歩みし精神医学の道.みすず書房.1968.
19) 内村祐之、吉益脩夫:帝銀事件.日本の精神鑑定.みすず書房.1972.
20) 山田義夫: 山田義夫談話.サン写真新聞, 1959年1月9日号.
21) 山田義夫:平沢貞通弁護七年. 日本週報. 1975年4月25日号.
22) 吉田哲雄、西山 詮:脳器質患者の刑事責任能力について.─狂犬病予防注射による脳炎後の1例に関する内村・吉益鑑定の批判をふくめて.精神経誌  74.1972.


以上のとおり、鑑定する。


1998年4月22日

秋元波留夫

以上が鑑定書本文です


秋元波留夫氏 略歴

1906年 長野県長野市で生まれる
1925年 旧制松本高等学校卒業、東京帝国大学医学部入学
1929年 東京帝国大学医学部卒業、北海道帝国大学精神医学教室入局
1935年 東京府立松沢病院医員、東京帝国大学医学部副手
1937年 東京帝国大学医学部講師、外来医長
1941年 金沢医科大学(現金沢大学医学部)教授
1958年 東京大学医学部教授
1966年 国立武蔵療養所(現在国立精神衛生センター)所長
1979年 東京都立松沢病院院長
1983年 退職

現職 日本精神衛生会会長、社会福祉法人ときわ会理事長、社会福祉法人あけぼの福祉会 理事長、社会福祉法人きょうされん理事長、共同作業所全国連絡会顧問


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