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帝銀事件活動日誌


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最後の電話 10/05/27(木)01:39:53
一週間ほど前、針生先生に電話した。それは先生が出演している映画「日本心中」「17才の風景」の上映会を開きたいためだった。先生に、その際、講演をしていただけないと言うと、「いいですよ、楽しみにしてます」と話されていた。

 今となって、この講演の企画はできなくなったが、この二本の映画の上映会を、開きたいものである。
 スクリーン上に、針生一郎の生き様と思想、生と死の歩みが映し出されることだろう。

追悼・針生一郎先生 10/05/27(木)00:31:44
 針生一郎先生が、5月26日朝、心不全で他界した。享年86歳。画家・平沢貞通の再評価を求める運動を先頭に立って、長きにわたり、おこなっていただいた先生の突然の死は痛手だ。

幾度も先生のお宅に伺いしたが、熱をこめて絵画と、人間の生き様について語っていた姿が思いだされてならない。
 私にとって尊敬する人であり、美術、社会、国家悪について論陣をはり・・・ともかく極めて純粋な人であった。

 先生は、平沢の大正期における、第1回二科展初入選作「昆布干すアイヌ」など社会的弱者と広大な自然を愛しむ、数々の絵画を高く評価していただいた。
平沢の生誕百年にあたっては「平沢貞通画集」を先生の手配で作っていただき、監修と論文を書いて貰った。
 画集出版の記念個展に来ていただき、絵を丁寧に見ていられたことが思い出される。

 私と先生の出会いは、いつだったのか。「救う会」設立当初からの支援者だったが、私が画家としての再評価を求め「絵探しの旅」をはじめた21年前から、色々と相談にのってくれた。

 数々の集まりなど遠方から来ていただいた。遠藤弁護士の事務所で、平沢の春画を見てもらったり、丸木美術館の「平沢貞通展」での公演。一昨年の個展での、鈴木邦男さんと私と先生での討論会。
 いつも全て無償で駆けつけてくれた。先生の時々、微笑まれる顔と、澄んだ目を忘れることはできない。

 先生がよく言われていた「相互扶助論」を私も読んだ。そして、社会と人間のあるべき姿を私に教えてくれた。
 一週間ほど前、電話したのが最後だった。
 ただただ冥福を祈るばかりである。

独房での正月     平沢武彦・記 09/12/06(日)04:33:55
 平沢貞通の生前、私は正月の1月5日には毎年かかさず面会に行った。
 寝台列車から降りると明け方の仙台駅は、零下の寒さのため、コートの襟を首深くまとい、身をちじめた。
 駅の日本食堂はまだ開いておらず、1時間あまり、凍えながら石畳の階段に座り、暖かな朝食をとるのを待った。

 面会は10時から。古い木造の掘っ立て小屋のような面会控室には、木炭のストーブがあり、寒さをしのいだ。
 上にあるスピーカーから「何番さん、3号面会室にどうぞ」との声。
 看守が拘置所の鉄扉を開け、私は壁の向こう側に入る。

 当時の仙台拘置所の独房には暖房もなかった。凍える獄窓のなか、平沢は毎日、何を思っていたのだろう・・・
 3号面会室、それが平沢の外世界にいる人との唯一の語らいの場であった。

 私は、面会室で、新年の挨拶をすると、平沢は深く合掌し、顔をあげ、澄んだ目で私を見つめ「ありがとうございます」と言う。

 新年の思いを聞くと「ただ正義を貫くだけです」と強いまなざしで述べていた。
 そして平沢は、獄中でもおせちの重が出ることを話し、「三が日分出るのですが、あまり美味しくないのですよ。雑煮もすぐに冷めてしまいますが、お餅を小さくちぎって、漬して食べます」
 私は、毎年、母の作ってくれるお節と暖かな雑煮を食べるのが楽しみであったが、獄中の正月は身も心も凍えるようなものなのかと思った。
 38年もの独房での正月・・・。希望の光を求め、絶望の闇に落ちる繰り返しであった一万四千余日・・・。

「大晦日から新年は、どのようにしてすごすのですか」と聞くと
「ラジオで紅白歌合戦がながれるのですが、最近の歌は軟派なので、すぐラジオを切りました。あとは、遠くのお寺から聞こえる鐘の音を聞いてからやすみます」

「しかし、あったかい天ぷらそばを食べたいですね。そして日本酒の熱燗をグイッと。武彦さんはお酒は飲むのですか」と聞かれ、
「申し訳ないのですが、大学の授業が終わると、いつも新宿西口の安い飲み屋で、熱燗2杯といたわさ・・併せて460円なのですが、いただいています」
 平沢はうらやましそうな顔をしていたが、「武彦さん、変な店には、くれぐれも行かないようにしてくださいね」
 と私に忠告してくれた。

「釈放されたら一杯飲みましょう」と平沢は杯を飲む仕草をするのがいつもで、面会の終わりには、プラスチック越に互いの手を当てた。

 私は、平沢には、まことに申し訳ないという思いでいながら、仙台の日本酒は美味しく、いつも、駅ビルの地下の飲み屋で熱燗を、帰りの列車を待ちながら飲み、思いをはべらせていた。

 20代はじめの私だったが、ともかく、面会後いつも痛切に感じるのは、自分は自由に列車の乗り降りをし自由であるが、平沢には、そのような自由がないという理不尽なことであった。
 今も思い出す・・・刑務所の高い塀と、仙台駅の石畳を。

「秘録帝銀事件」の販売状況   救う会事務局 09/10/06(火)14:20:03
「秘録帝銀事件」は好評につきインターネット通販では在庫切れの店舗が多くなっています。
アマゾンでは在庫が3点(価格2割引/11月4日まで送料無料キャンペーン中)、在庫切れとなっていた楽天ブックス(送料無料)では在庫が補充されました。TUTAYAでは在庫切れになりましたが、セブンアンドワイは在庫があります。書店でも、残部が少なくなっておりますので、お早めにご購入いただけましたら幸いです。

最初の面通し 「秘録帝銀事件」森川哲郎著より 09/10/05(月)20:14:28
 駒込署では、中井支店(未遂事件)の大久保氏と、たまたま中井支店に居合わせていて、犯人を目撃した高田馬場支店の戸谷支店長二人の首実験が行われた。大久保氏は「違う」、戸谷氏は「犯人に似ているがわからない」という証言をした。午後から、平沢の身柄は警視庁に移された。ここで生存者の吉田、田中、阿久沢の三人を含む九人の首実験が行われた。
 生存者三人は、はっきり違うと断言し、他の二人(未遂事件)も「犯人と違う」と証言、残りの四人(未遂事件)は「似ている」という証言だった。

居木井為五郎の刑事魂とは・・  平沢武彦 09/09/20(日)21:32:39
 居木井警部補が、平沢が犯人であると強く確信したのは、名刺を占い師に鑑定してもらったことにも起因している。平沢逮捕後、その占い師に「名鑑定ありがとうございます」と礼にあがったという。
 捜査において名刺捜査班は傍流であり、まわりから狂信的と相手にされなかった。
 しかし、主流であった軍関係の捜査はGHQの圧力を受け、それ以外のものを逮捕するようになる。
 居木井は「平沢逮捕十箇条」を提出、藤田捜査本部長は「十万円損するか!」と逮捕することを認めた。

 平沢貞通が獄死後、居木井はテレビの取材を受け「もう何十年前のことだもの、何とも思っていないね」と語り、帝銀事件の生存者のなかに平沢ではないと言っている者がいることについては「やっこさんたちは、犯人にだまされたんだもの、そんな人たちの証言には信憑性はないね」と答えた。

 あるジャーナリストが取材した際、居木井は自慢げに、功労賞として贈られたトロフィーと平沢を逮捕した際の手錠を見せたという。その手錠はピカピカで、日頃よく磨いていたとのだという。
 平沢逮捕後、駒込署で居木井は平沢を肉体的拷問をも駆使し、取り調べている。そして「自分は平沢を自白させた」と自負した。しかし、その取調べ調書はない。荒っぽい逮捕と取調べは、非人道的な行為と国会でも問題になったほどである。
 猪のようにカンだらけで犯人を追及し、ともかく拷問をしてまでも自白をとろうという居木井警部補のような刑事には逮捕されたくないものである。
 
 
 

平塚八兵衛が平沢逮捕の立役者 ? ? ? 09/09/20(日)20:49:44
 先に放送された「平塚八兵衛 刑事一代記」のドラマを見てて、何でそうなるの?という感じを受けた。
 それは、まるで平沢貞通を逮捕した立役者で、事件を解決したように描かれていたからだ。
 ドラマで、平沢への嫌疑に躊躇する居木井名刺捜査班長に、平塚が強く進言し、逮捕に至ったというシーン。
 たしかに平塚は名刺捜査班の一員ではあったが、平沢逮捕に尋常ならぬ執念を燃やしていたのは居木井警部補である。
 平塚は、手記でも、自らが帝銀事件に大きく関ったように記しているが、虚言的虚栄心に他ならない。
 
 
 
 

新内閣では死刑執行が難しい状況に、法務・検察幹部は?  平沢武彦 09/09/18(金)05:21:53
 誰が、新法務大臣を任命したのか? 鳩山首相自身なら、評価したいもの。
 千葉景子法務大臣は、死刑廃止を提唱している「アムネスティー議員連盟事務局長」、「死刑廃止を推進する議員連盟」のメンバー。その上、亀井静香議員、福島みずほ議員も死刑廃止論者である。この内閣である限りは、新たなる死刑執行はできない可能性は高い。
千葉法務大臣は会見で「これだけ死刑についての在置・廃止についての論議があり、終身刑の導入についての論議もある。ぜひ広い国民的な議論を踏まえて道を見出していきたい」と言及。
 これに対し、法務省幹部は「個人的に死刑廃止の考えを持っていても大臣の立場では死刑執行起案書へのサインを拒むのは難しい」と応酬。
 何という思い上がりか。平沢貞通の死刑執行については、三十数名の法務大臣はサインをしなかった事実をどう考えているのか。「死刑執行起案書」にサインするかどうかの権限者は法務大臣にあるのだ。
 法務・検察のエリート官僚たちは、何が何でも、死刑執行を推進していかなければならないという重篤な執念を燃やしている。彼らが、新内閣に対して、どう揺さぶりをかけていくか、注目するところ。
 民主党の議員たちも検察に狙われることを恐れているだろう。鳩山首相、小沢一郎幹事長の思いは?
 ただ、参議院選挙で民主党が圧勝し、連立体勢が崩れた後は、法務省の要望どおりとなるかもしれない。
 小沢一郎幹事長に聞きたい、「検察は怖いか?」 「死刑を廃止するべきか?」 「死刑執行を推進すべきか?」を。

首相官邸にある平沢貞通の絵の運命は 平沢武彦 09/09/09(水)22:58:01
戦時中から首相官邸の官房長官室にかけられていた平沢貞通のテンペラ画「松浦潟のジャンク」は、平沢が逮捕されたあと、壁から外され、62年間、収蔵庫の闇の中にある。
政権は、民主党と社民党、国民新党の連立政権になるが、その平沢の絵が再び首相官邸に飾られる日はくるのだろうか。再審で無罪になった日か、歴史に平沢の無実が刻まれるようになってからか。
 鳩山首相が、官邸でのテレビのインタビューの際、さりげなく、後に飾ってくれればいいのだが・・・。

処刑の記憶  平沢武彦・記 09/09/07(月)01:15:13
 1946年9月6日、私の祖父・森川由恵は、当時の満州のハルピン公園で、無実のまま公開処刑された。
 祖父は、ハルピン工業大学の教授をし、中国人の学生たちを差別することなく愛し、反日学生たちも家にかくまうなど、教師活動をしていた。
 反日活動をしていた学生たちが、憲兵隊に銃殺された際には、遺体を引き取りに行き、祖父は、憲兵隊に、机をたたきながら激しく抗議したという。そして、それ以来、祖父は憲兵隊に尾行されることになった。
終戦直後は、祖父はハルピンの日本人会の中心として、日本人の引き上げに尽力していた。しかしある日、祖父は、日本人の学生に反乱を起こそうとしているとの言われなき嫌疑をうけ、中共軍に逮捕された。
 中国人から助命嘆願の運動もおこったが、それは実らず、裁判はほとんどなされいまま、処刑は決まった。
 そして、ハルピン公園で、祖父は、銃口を顔面にあてられ、銃殺された。日本人の学生によると、顔面の半分は無くなっていたという。
 森川哲郎は、旧満州で兵隊となり、敗戦後はソ連や中共軍の捕虜となって、逃亡をくり返し、大雪原のなか、父や家族のいるハルピンに向かった。
 しかし、引き上げの地・コロ島で父の訃報を知ることになる。森川は、コロ島の堤防を走りながら号泣したという。

 森川は敗戦後、新聞記者となり、作家となった。日本の黒い霧といわれる事件なども取材し記事にした。
 そのなかに帝銀事件の平沢貞通がいたのである。そして、平沢の死刑が執行されるという情報がもたらされ、森川は「救う会」をつくり、死刑阻止運動と再審請求に尽力をつくした。
 森川の心の中には、父の処刑には間に合わなかったが、いまなら平沢の死刑執行は阻止できるという思いがあったのかもしれない。
 森川は、夢の中で、平沢が処刑される夢を見、うなされることは度々であったという。
 数日前、ケーブルテレビで映画「私は貝になりたい」を見たが、いったい、どれだけの者が無実のまま処刑されたきたのか。
 平沢が長年にわたり拘置されていた宮城刑務所の近くのお寺に、死刑執行された無縁仏の遺骨がおさめられている碑がある。その碑の後には、明治以来、千何百人・・・と記されている。叫べども声にならない声は、今も、闇の中に葬られつづけている。

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