破綻した国家プロジェクト―苫東開発、30年目の夏

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月刊 自然と人間 2006年7月号 発行:株式会社自然と人間社
「破綻した国家プロジェクト―苫東開発、30年目の夏」
写真と文:加藤雅昭

 この夏、巨額の累積赤字を抱え完全に破綻してしまった国家プロジェクト、苫小牧東部大規模工業基地-通称苫東-の着工から30年周年を迎える。その借金は1998年当時で1860億円であったが、周辺整備まで含めると3600億円とも言われている。その借金は他の公共事業と同様、国民の税金でまかなわれている。
 この計画が持ち上がったのは日本の高度成長時代の末期にあたる1960年代後半のこと。苫小牧市東部に広がる1万2千ヘクタールの「不毛」の大地に3本の掘り込み式人造港、鉄鋼、石油精製、アルミ精製などを誘致し世界にも類を見ない巨大コンビナートを建設しようというバラ色の計画で北海道開発庁が主導して推し進めた。

 もっとも、石狩低湿地特有の豊かな自然環境に恵まれた勇払原野を「不毛」の大地と呼んだのは開発者側の都合の良い論理でしかなかったのだが......。

戦後入植者を札束で追い払い、廃屋となった弁天地区、着工直後

「戦後入植者を札束で」
 苫東計画の中でも最も重要な臨海部は弁天と呼ばれる地域。弁天地区は北海道の中でも最も遅く開拓民が入った地域で、そのほとんどは戦後入植である。もともと、農作物の生育には適さぬ樽前山の火山灰土の地質の上、湿地帯特有の泥炭であっため開拓民は排水溝を掘ったり客土したり、血のにじむような努力のすえ開墾した。サイロに使うブロックまで自分で作ったという。そんな中、ようやく酪農に光明が見えはじめた矢先の苫東計画。
 北海道開発庁、道、苫小牧市が一体となり、強引な用地買収を繰り広げ自治体である北海道自らが農地法違反で摘発を受ける事件を引起すが、開拓で多額の借金を抱え苦しんでいた農民たちは、目の前に積まれた札束に飛びついてしまったのだった。
 その結果、旧国鉄日高本線勇払駅と浜厚真駅の間の弁天地区を含む10キロ四方は人っ子1人住まぬ無人の原野と化し、不気味なほど静寂な世界が広がっていた。そのあちらこちらには開拓農民が去った無残な廃屋が点在し、サイロやブロック造りの家が窓枠だけを残し、ひっそりと建っていた。 1976年8月、大学で写真を学んでいた私がはじめて勇払原野を訪れた夏のこと......。

「日本列島改造論とオイルショック」
 1972年、ブルドーザーの異名を誇った当時の田中角栄首相がブチ上げた「日本列島改造論」は、まさに日本列島を網の目の道路とコンクリートで固めてしまおうというような「重厚長大」な内容だったが、苫東計画は、青森県の「むつ小河原」、鹿児島・宮崎両県にまたがる「志布志湾」とともに列島改造論の目玉と掲げられた開発計画であり、「田中土建内閣」の強力な後押しを受けることになる。現在、その3ヶ所に共通するのは、オイルショックを契機に計画された石油備蓄基地が建設されたことと、そのすべてが破綻してしまっていること。
 この列島改造論の翌年、1973年に中東戦争の影響で世界中を襲ったオイルショックは、日本でもトイレットペーパーの買占め騒動にまで発展し大きな社会問題となった。その結果、経済成長は止まり、省エネを考慮し石油需要を抑制する経済へとシフトし始めていた。
 そんなオイルショックを経た後でも苫東計画は様々な批判や見直し論の中、当初の計画では3本あった堀込港を1本削減しただけで、ほぼ当初の計画通り強引に巨大コンビナート建設へと突き進んでいった。環境への影響評価であるはずのアセスメントは、もはや免罪符のひとつに過ぎず、遂に1976年8月12日、浜厚真沖でケーソンが投入され巨額の累積赤字を抱えることになる巨大公共工事がスタートしたのである。
 「間違いは決して認めない」「走り出したら絶対に止まらない」などと揶揄される日本の公共事業共通の問題がここでも実行された。長良川河口堰しかり、諫早湾干拓事業しかり......。

「苫東第二次買収」
 苫東の買収ともない国鉄日高本線の浜厚真駅は無人となり、国道が切り替わり、学校が廃校となり浜から人々の姿が消えた。日高方面への交通の要所として栄えた浜厚真は開基80数年でその歴史を閉じた。 
 浜厚真の前浜漁場は道内でも有数のホッキ、ホタテ漁場で苫東以前には全道でもトップクラスの所得を誇っていたが、この砂浜の海岸には昔から漁港はなく漁船は前浜に引き上げる以外方法がなかったのだが、突然、念願の「港」が出来た。苫東港工事用船溜まりが1976年8月の着工からわずか数ヶ月で完成してしまったのだ。 
 その後行なわれた二次買収で浜から一里も離れた上厚真に出来た漁民団地へと移り住んだ人、海を捨てて転職したり、道内の他の港町へ散ってしまった人......。 
 苫東着工直後、浜の人々は苫東港工事を横目で見ながら細々と漁を続け、浜を去る日を静かに待っていた。 

「二風谷ダム」
 つい先日、アイヌ民族初めての国会議員として活躍した萱野茂さんの訃報に接した。萱野さんは生前、故・貝澤正さんとともに地権者として二風谷ダム訴訟を起こしたことで知られるが、そもそも二風谷ダムは「苫東への工業用水供給」を目的に計画され、ダムでせき止めた沙流川の水を地下トンネルで隣の鵡川まで導き、これを利用するというとてつもない計画だった
 苫東計画の失敗が見え隠れするようになると「洪水対策」とその目的を変えた。二風谷ダムが計画されていた沙流川流域では過去洪水に見舞われたことがないと批判されると今度は「発電」をするとし、1986年「多目的ダム」の名目で二人の地権者の訴えを完全に無視する形で強引に着工されてしまった。その結果、毎年夏にチプサンケ(舟おろし祭)が催されていたアイヌ民族の聖地が水没し、ダムの完成とともに何故か流域では洪水が多発するようになった。
 1997年札幌地裁は二風谷ダム訴訟工事のための土地取得は違法と判断したが、ダムの運用中止という原告側の訴えは棄却された。

「苫東の教訓」
 疑問や反対の声を無視して強引にすすめられ巨額の赤字を作ってしまった苫東。売れたのは全体の2割とされているが、公害防止のための緑地帯を含んだ数字であり実際には1割程度しか売れていない。しかも、売れたのは当初の臨海工業基地計画とは大違いで、千歳空港近くの隣空部ばかり。
 その失敗の張本人である北海道開発庁は汚名返上とばかりに1984年、千歳川放水路計画を発表した。日本海に流れている川を洪水対策とはいえ太平洋に流すという荒唐無稽な計画には当初から多くの疑問や反対の声が上がった。 
 しかしながら、またしても北海道開発庁はこの声に耳を傾けなかった。むしろ、この放水路計画で通過することになっていた、ほとんど売れていない苫東の工業用地を言値で売却出来る最後のチャンスとばかりに躍起になっていた。
 苫東での失敗を身をもって体験した漁民や農民、市民団体は苫東開発で約束された美々川とウトナイ湖の保全が放水路計画によって反古にされてしまったも同然であるとして反対運動に立ち上がった。
 この運動は実を結び、国の公共事業見直しや道の「時のアセス」の後押しを受け、1999年3月、事実上の放水路計画中止へと追い込んだ。

 苫東失敗の最大の原因は、オイルショック後、企業は省エネ・循環型の経営にシフトしたにもかかわらず、時代の変化に目をつぶり続け、疑問や反対の声に耳を傾けようとせず時代遅れの「重厚長大」な当初の計画を強引に推し進めてしまったからに他ならない。戦後の日本を牛耳りつづけてきた「造ることが目的」の土建政治そのものの構図がここにある。
 苫東の最も重要なコンビナート予定地となっている臨海部への企業の進出は皆無であるが、皮肉なことに、このことがかえって自然環境を蘇らせる結果となった。弁天地区にあるウトナイ湖と対の沼、弁天沼周辺にはオオワシやオジロワシ、マガンやヒシクイなどの国の天然記念物が大挙して訪れ、開拓前の大自然豊かな勇払原野の姿へと変貌させてしまった。
 にもかかわらず、その後も弁天沼周辺に国際熱核融合施設を誘致(六ヶ所村に候補地決定で誘致に失敗)しよう、国会も誘致しよう等々...。着工から30年、人々の生活と自然環境をことごとく破壊してしまった上に失敗した苫東の教訓はまったくと言っていいほど生かされていない。 

「見えなくなった借金」
 はたして、現在苫東の借金はどのくらいあるのだろうか?
 苫東開発は悪名高き第三セクター方式の「苫小牧東部開発株式会社」―株主構成は、国、地方自治体、民間金融機関、民間企業等―が事業主体としてスタートした。
 1998年、苫東開発会社は約1860億円の債務を抱えて経営危機に陥り、翌年会社を精算し、北海道開発庁が民間金融機関に債権放棄を迫り2000年に新会社「株式会社苫東」が設立されたが出資者の顔ぶれは以前とほとんど変わらない。
 この会社精算で本当の借金総額がわからなくなってしまった。1992年には1448億円だった借金が、わずか6年間で400億円以上も増加したのだから、現在は2400億円以上の借金となっているはずだが......。


「苫東でブロッコリ栽培」
 1995年の夏、広島県福山から戦後入植でここで農業を営んでいた藤井昭典さんとともに苫東弁天地区を訪れた。残されていたサイロを見るなり「あっ、佐久間さんのサイロだ、亡くなったものなぁ~、佐久間さん...。体に無理かけたものなぁ~」と、辛い開拓時代の思い出をかみしめていた。
 藤井さんは苫東の用地買収により苦労の末開墾した弁天を離れ、苫小牧市内で銭湯を開業し、なんとか成功をおさめたが今でも土の感触が忘れられないと語る。「ウチは岸壁の予定になってたけれど、使ってないんだったら返してくれないだろうか?」

 昨年初秋、藤井さんら開拓農民を札束で追い払った場所、弁天地区を訪れ驚いた。何の因果か巡り合わせか、大規模コンビナートを造ろうとした場所で農業が行なわれているのだ。これは、NPO法人が2004年から大規模にブロッコリを有機栽培しているもので、昨年が初めての収穫だった。
 もちろん、出荷されるブロッコリに苫東の借金が上乗せされることはないだろうけれども、仮にそうなれば一株幾らのブロッコリになってしまうのかな...などと意地悪なことを考えてしまう。それほどまでに苫東の借金は膨大なのである。

「旅客機の窓から」
 もし、旅客機で北海道を訪れる機会があったのなら、苫東の現状を見て欲しい。太平洋側から千歳空港へ直接最終着陸態勢に入った時、旅客機の右窓の眼下に見える広大な空地、それが政府の肝いりで開発がスタートした「大規模工業基地」苫東の無残な姿だ。あるのは、港、工場に電力を供給するはずだった石炭火力発電所、オイルショックを契機に建設された石油備蓄基地だけで、そこには鉄鋼、石油精製、アルミ精製はおろか工場一つない。
 第三セクター「苫小牧東部開発株式会社」から「株式会社苫東」へと名称が変更され、借金総額が表向き見えなくなってしまってはいるが、確実に我々の税金でまかなわれている事実には変わりはない。
 問われつづけている「北海道開発庁」の存在意義、「土建政治」、「日本列島改造論の亡霊」に近年ようやくメスが入ったばかりであるが、これは日本の借金が1分あたり約1,600万円、年間約8.7兆円というスピードで増え続けているという恐ろしい現実にそうせざるを得なかっただけであり、決して政府が疑問や反対の声に耳を傾け、間違いを認めたからではないのだ。


苫小牧東部大規模工業基地開発年表
1969年  新全国総合開発計画決定により計画が具体化
1971年  苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画が策定
1972年  工業用地の造成・分譲などを行う苫小牧東部開発株式会社設立
同年    田中角栄による「日本列島改造論」
1973年  第一次オイルショック
1976年  苫東着工
1978年  第二次オイルショック
1983年  石油備蓄基地完成
1986年  二風谷ダム着工
1990年  国家石油備蓄基地が完成
1996年  苫小牧東部開発新計画を策定。計画の仕切直しが進む。
1998年  12月、苫小牧東部開発株式会社の清算、新会社の設立について閣議了解
1999年  債務超過で苫小牧東部開発株式会社破綻、北東公庫の新会社への出資で救済を閣議了解
2000年  株式会社苫東設立

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このページは、2006年7月 1日 15:11に書かれた記事です。

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